教育再生会議の「『親学』に関する緊急提言」は、とりあえず見送りになったそうだ。この提言の中に「(7)親子でテレビではなく演劇などの芸術を鑑賞」とあり、しかもこれが、再生会議のメンバーである劇団四季の演出家・浅利慶太氏が「演劇も入れてよ」と発言したから入った、というのは、既に読者諸兄姉もお聞き及びであろう。

周知の通り、学校教育の実技科目の中に美術や音楽は入っているが、演劇は入っていない。欧米の事例を見習い、学校教育に演劇の授業を組み込んでしまえば、顧客は飛躍的に拡大し、演劇リテラシーを教養として身につけた観客も育つだろう、というのが、日本の演劇人の悲願ではある。浅利氏の提言はさらに一歩進めて、これを家庭にまで持ち込んで、演劇鑑賞を早期教育として位置づけることを意図したものだ。

そうか、彼なりに演劇界全体のことを考えているのか、と思いきや、さらに浅利氏は「全国25万人の子供たちに劇団四季のミュージカルを無料で見せる」と言っているそうだ。いやはや、さすがにユダヤの商法を身につけているビジネスマンである。子供のうちに刷り込みをおこなってしまえば一生顧客にできるという、故・藤田田ばりのマクドナルド方式を構想しているのだろう。幼い頃からブロードウェイ・ミュージカルを見なきゃいけないなんて、嗚呼なんと「美しい国」であろうか!

ポイントは「無料」。税金は一銭も使わない(ってことだよね、もちろん?)というところに、「官」に頼らず「民」の立場を貫いてきた、浅利氏の矜持が感じられる。しかし、タダほど高いものはない、とも言う。新自由主義に立つ今日の「官」は、国民のイデオロギー的統制までも「民」に委託し、ボランティアで、善意で、無料で、巨大企業がこの役割を請け負うというわけだ。しかしそれって結局は、「芸術」の美名を借りた、間接的な利益誘導でしかないじゃないか? 演劇界では大きな仕事をした人だが、人生の最後に、演劇の枠を離れ、社会全体の行く末を見据えて思いつくことなど、たかだかこの程度のことなのだ。なんともスケールの大きな、しかし発想はちっぽけな、しょせん「演劇おたく」である。あのさあ、舞台なんてアナログなものに接しているだけでは、「コンテンツ産業」で活躍する人材を輩出できないぜ、安倍君よ(笑)。

そもそも、親が子供にテレビを見せるか、劇場に連れて行くか、それとも遊園地に連れて行くか、なんてことは好き好きであって、こんなことについて政府が「提言」すること自体が、日本国憲法で定められた基本的人権の尊重に抵触する。この程度のことは、小学生でも理解できる。浅利老人も、文部科学省の役人も、もう一度小学校の社会科からやり直しなさいよ(笑)。こういう人たちが「教育再生」を語るとは、もう笑い話でしかない。

ちなみに、演劇と教育の関わりについて、私自身の立場はこうだ。学校教育に演劇を導入することには、確かに一定の有効性がある。とりわけ、演劇ワークショップを体験した生徒が、多少なりとも自信がついたり、他人と接することへの抵抗が減ったり、ということはあるだろう。だが、集団の中で目立ってしまうと、いじめに合う危険性が高まるのが、悲しいかな日本社会の現実である。演劇の授業に参加し、積極的な自己表現を試みたことが、いじめを誘発するトリガーになる可能性は常につきまとう。従って、演劇を「総合的な学習の時間」のような選択科目として導入するのは、人材が確保できているなら賛成だが、必修科目として導入することには、私は原則として反対である。ただ、偏差値が高く、リベラルな教育が有効に機能している私立の学校でなら、必修にしてしまう手もあるかもしれない。

残念ながら、この国の教育の世界で演劇にできることって、この程度が限界なのだ。これから教育現場と関わろうとしている演劇人諸君は、自分にできることの限界を、よくよくわきまえておいてほしい。また、浅利慶太氏のように、演劇人としてのメリットしか考えられない人は、教育現場には関わらないでもらいたい。選択科目だろうが何だろうが、生徒の前では演劇人諸君も教育者たらざるをえないのだから、心底から教育というイシューに関心が持てないなら、そういう場に出て行ってはいけない。また教育に関心がある場合でも、頭のカタい先生より以上に、生徒を前にしたとたんに説教臭くなるタイプの演劇人がいる。下手に熱意があるだけに、現場の教員たちが口出ししづらくなるケースだ。これが一番の問題かもしれない。この場合、本人は絶対に自覚しないから、まあ、生徒諸君は運が悪かったと思ってあきらめるしかないね。