報道によりますと、外務省は「令和」を「Beautiful Harmony」と英訳したようです。「Beauty and Harmony」ではなくて「Beautiful Harmony」。

新元号の発表のときから気になっていたのは、「令」と「和」の関係だったんですが、この英訳ではっきりしました。つまり、一文字目の「令」が、二文字目の「和」を形容しているってことですね。「平成」は「内平らかにして外成る・地平らかにして天成る」と説明されてましたから、「平」と「成」は並列されている印象でしたが(音からしてもそうです)、「令和」はこれとは作りが違うわけですね。「令」は「令月」から取ってるんだから、次に来る文字(体言)を修飾していると捉えるのが、確かに自然ですわな。

そうすると、ここで私は非常に違和感を覚えるんですけど、私なんかは「和」と聞けば即座に「和を以て貴しとなす」と連想するんで(言うまでもなく聖徳太子の十七条憲法ですな)、「和」は「和」であるだけでプラスの価値を持つものだと今日の今日まで思ってたんですが、そうではないって政府は解釈しているわけですね。案を出した専門家も、審議した有識者も、そしてもちろん総理官邸も、「ただ和するだけでは不足」と思ってるってことですよね。

この「和」を「ハーモニー」と英訳していることから、そのニュアンスはさらに明確化していますが、つまり、ビューティフルなハーモニーと、ビューティフルでないハーモニーがあるってことですよね。「ハーモニー=ビューティ」っていう前提があるなら、「ビューティフル・ハーモニー」は滑稽な同語反復にしかならないはずです。「きれいな美女」って、日常会話ではアリですけど、公の文書にのせるようなフレーズではないですよね。

ここで、わざわざ漢籍でなく万葉集に典拠した割に、十七条憲法をわかってないじゃないか、と、安倍総理に皮肉を言ってもいいんですが、まあそれはいいでしょう。注目すべきは、安倍総理をはじめとして、現に誰も「“令和”なんて“きれいな美女”って言ってるのと同じじゃん」という違和感を覚えてはいない、ということです。英語圏の人たちだって、「ビューティフル・ハーモニー」と聞いても、別に「はぁ?」とは思わないでしょうね。「なるほどねー」でしょうね。

じゃあ、「ビューティフル・ハーモニー」と聞いて、英語圏の人がパッと思い浮かべるのはなんなのか。「調和」という抽象度の高い概念に飛躍する手前で、やっぱり、まずは「和声」が思い浮かぶんじゃないですかね。ここで、話はいきなり音楽に接続するわけですけどね。西洋音楽史を前提とする限り、「ハーモニー=ビューティ」なんて簡単には言えないよな、というのは、確かにその通りなんですよね。ビューティフルである(と感じられる)ハーモニーと、ビューティフルでない(と感じられる)ハーモニーがある。じゃあ、ビューティフルでないハーモニーって何か? ひとつは、譜面通りに弾いているはずなのに、演奏や歌唱が拙劣で、ハーモニーが台無しになっている場合。もうひとつは、意図して「ビューティフル」とは感じにくい和音が用いられている場合。

音楽について考えると、前者だけなら話は簡単ですが、後者も無視できないので、話はややこしい。ワーグナーのトリスタン和音(興味がある方は検索してみて下さい)なんて、最初は「和声の危機」と呼ばれたりしたわけで、近代以降の西洋音楽史を紐解けば、「これビューティフルか?」という和音が積極的に用いられ、和声はどんどん複雑化し、ついには調性感が消滅するところまで来た、というストーリーが存在するわけです。いわゆる「現代音楽」の登場、というやつですね。

だから、クラシック音楽なんかちょっと齧っている西洋人に、「あなたにとってビューティフルでないハーモニーとは?」って質問したら、苦々しい顔をして「シェーンベルク」なんて答えるかもしれないわけです。いや、私はシェーンベルク、大好物ですけどね!

何が言いたいかというと、この「ビューティフル・ハーモニー」という英訳から西洋音楽史を連想しても、確かに「ハーモニー=ビューティ」という前提はもはや成立せず、「ビューティフルであるハーモニー」もあれば「ビューティフルでないハーモニー」もある。そこで、前者を優位、後者を劣位に置くような価値観って、音楽の文脈に置いてみるなら、私みたいに「現代音楽」に親しんでいる人間からすると、ずいぶん反動的・復古的な音楽観だということになるわけであります。

日本(語)の文脈に戻しますと、もはや「和=令」という前提は成り立たず、「令である和」もあれば「令でない和」もある、と、人々は漠然と想定している。そのくらいに価値観が多様化しているという話かもしれませんけど、じゃあ「令でない和」って何なのか? 「不和」とは違うわけですしね。「令月」とか「令嬢」とかいう語感からすると、「令」ってスタティックな優美さを感じさせますわな。ということは、その反対に、わーわー議論するけど殴り合いはしない、みたいな、ダイナミックな「和」が、「令でない和」ってことになるんじゃないでしょうか――あたかも「こんなのただの不協和音にしか聞こえない!」って文句つけられてる現代音楽のように。

そうしますと、「令は命令の令だろ」みたいな批判は言いたくないんですが、でもやっぱりこの新元号が暗に示しているのは、「ぐちゃぐちゃ文句言わずに、黙って空気を読め」っていう同調圧力なんじゃないかって気がしてしまいます。ここでもういっぺん聖徳太子を持ち出すなら、これも検索するとズラズラ出てきますけど、「和を以て貴しとなす」って、実は「とことん議論しなさい」って意味なんだそうですよ。聖徳太子に質問したら「“令和”なんてのはさ、本当の和とは言えないんだよねー」って答えるかもしれない。安倍総理、ここはひとつ、十七条憲法の精神を踏まえて、新元号、もういっぺん考え直した方が良くないですか。え、「代案を出せ」ですか? そうですね、むしろ「令」ではない、傍から見れば醜悪な、けたたましい「和」こそが「和」だ、という意味合いで、「騒和」で如何ですか。「昭和」じゃなくて「騒和」!