「国から金もらって映画作って「公権力と距離を保つ」と豪語し称賛の嵐だった是枝裕和監督の残念感」を書いたのはネトウヨ系の人か思ってたら、違うんですね。「俺は助成金なんかもらってないぞ」という、反権力系の映画人の投稿だったんですね。

まあ、是枝監督の、なんというか、思想的に中途半端な感じというのは、左からも右からも嫌われるものでしょうね。この人は、ウィキペディアによれば早稲田大学第一文学部文芸専修出身だそうです。いかにも、ですなあ。もともとテレビマンユニオンのディレクターですよね。『しかし… 福祉切り捨ての時代に』とか、よく覚えてます。VHSに録画しましたよ。

90年代以降、昔ながらの「映画会社に入社して助監督から叩き上げて映画監督になる」という王道が崩れ去り(叩き上げといえば阪本順治監督あたりが最後なんじゃないのかな)、インディーズからPFFを経てデビューするというパターンと、もうひとつ、テレビのディレクターから映画監督に転ずるというパターンが生まれましたね。故・市川準監督が後者の走りでしょうか。私は市川監督の映画の、いかにもテレビをやってた人っぽい、あのぬるい感じが嫌いでした。是枝監督の映画は、たしか『DISTANCE』と『誰も知らない』を見ましたけど、同じように「ぬるい」という感じがして、好きになれませんでした。『万引き家族』もたぶん観ないです。リリー・フランキーみたいな、ああいう文化人ヅラして「ちょっと深い感じがする」タレントを起用するあたり、おえええという感じがします。

まあただですね、「助成金もらってるくせに公権力とは距離を保ちたいとは何事か」という難癖に対しては、「じゃあ日本中の図書館からマルクスの著作は撤去しなきゃいけないのか」と応じておけばいいと思います。いい機会なので、ナショナルとパブリックは違うということを、文化政策やってる人たちが、改めて世に問うべきでしょう。

それはそれとして、しかしですね。

早稲田大学→テレビマンユニオン→映画監督→パルムドールって、もちろん努力も苦労もされたでしょうが、今の世の中では、立派な文化系エリートコースなんじゃないですか。こういう、口では反権力を気取りながら、実際は学歴社会、企業社会の中でおいしいポジションを獲得している(すなわち、見る人から見ればアナタこそが権力に他ならない)という自己矛盾、さらにはその自己矛盾に対する無自覚というのは、いまどき、大衆(という言い方が雑なのは百も承知ですが)の根底にあるルサンチマンを最も逆なでするものだと私は感じます。田原総一朗が反権力を標榜する気持ち悪さも同じ。あの人も早稲田ですか。これに対して、安倍総理や麻生大臣にそういう自己矛盾はないですから。「俺ビッグになりたい」というだけですから。嘘はついても正直者に見えてますから。森友や加計のようなチマチマしたスキャンダルごときでは、内閣支持率がいっこうに落ちないのも、むべなるかなであります。

つまり今や「早稲田的なもの」への嫌悪感が、安倍一強を生む要因のひとつとなっている、と解釈してもいいくらいだと思います。是枝監督がこういう現実について鈍感であるということは間違いがなく、従って、「助成金もらって反権力を気取る」のが「残念」というより、別に助成金はもらってもいいんだけど、「いまどきポーズだけ反権力を気取ってみせることの気色悪さ」に対して無自覚である点を、早大一文の後輩(笑)である私は「残念」に思います。ただし、だからと言って「文科大臣の祝意は素直に受けておけ」と言いたいわけではないです、念のため。