対談:モダニスト大岡淳をめぐって <最終回>

 

●真心コミュニケーションのいかがわしさ

 
佐々木   このくらいの時期ですかね、少し前くらいから、ワークショップというのが流行りますよね。

大岡    そうですね。

佐々木   2003,4年あたりですかね、学校に行ってワークショップをしているという同世代の演劇人と会ったんですね。僕なんか学校に演劇をやりに行くという発想がそもそもなかったので、どういうことだ?と思うんですが、何をしてきたの?と言ったら、鈴木メソッドを教えてきた、と言うんですよ。これにはびっくりしましたね。そういうことだけはやめてくれと思いました。生徒一人一人の主体性なり何なりを考える場として演劇を使うならいいが、演劇とはこういうものである、というような誤解を与える形で、枷を与えにいくことになりはしないかと思ったんですね。

大岡    鈴木メソッドは、あくまで俳優および俳優志望者のための訓練方法なので、そのように軽々しく教育現場に持ち込むことを忠さん本人は認めていないはずですから、それはその人が勝手にやっちゃったんでしょう。ともあれ、ワークショップ・ブームがやっぱり存在したと思うんです、90年代後半から00年代の前半にかけて。その頃に演劇人たちがワークショップの名の下にやっていたことは――いや演劇に限らずアーティストたちがやっていたことは、ワークショップの方法論に意識が高かった一部のアーティスト(例えば建築家の長谷川逸子さん)を除けば、自分の創作の奥義をチラリと見せる、ということですよね。良き観客を作りたかったんだと思いますね。リテラシーの高いお客さんを育てたかった。それ以上のものではなかったんだと思います。

佐々木   自分のファンを作るということですかね? 自分の舞台への理解者を作るということなんですかね?

大岡    そういうことです。だから受講者の人生にとってこれが何の意味があるのか、という問いは、みんな全然持ってなかったんじゃないでしょうか。だから、僕はそれらに対しては非常に批判的でした。今は、演劇ワークショップも定着しましたし、芸術以外のジャンルの自己啓発的なものや、コーチングのようなビジネススキルも含めて、ワークショップの意義が広く共有されるようになってきました。だから、ちょっとだけ創作を体験させ、単に奥義をチラリと垣間見せ、どうだプロってのはすごいもんだろう、とアーティストが胸を張って去っていくというのは、偽物のワークショップだということに、今の一般の消費者は気が付きつつあると思うんですね。だから、今は通用しないと思いますけど。僕の場合は、演劇業界内でもアゴラでやってたワークショップ研究会とか色々あったみたいですけど、それらとは別の文脈で、公教育における「総合的な学習の時間」の導入の準備段階にたちあい、PETA(フィリピン教育演劇協会)を手本として、デューイ以来のプラグマティックな理念と方法に基づいたワークショップの意義を98年の段階ではっきり摑んでいたので、そこはブレが無かったと思っています。芸術の為ではない。ファンを作る為でもない。受講者の人生にとって有意義な時間を作り出すのがワークショップだ、だからある意味ではサバイバル・スキルの提供なんだ――そういう意識でずっとやってきた訳なんですけど。問題はここから先で、これから僕が何をしていくのかということを考えたときに、そろそろこの路線も一回卒業したいなと思ってはいるんですけどね。

佐々木   例えば今、コーチングとかが流行っていますが、また胡散臭くなってきてると思っています。あなたがどう考えているか僕は知りたいということが、コミュニケーション・スキルとなると、コミュニケーションをすることがあまりにも前提になりすぎていていると思いますね。逆に言えば、デューイやPETAとかボワールがもっていたような内発的な近代化のためにコーチングは、ある面は必要だと思いますが、何て言えばいいんですかね、全面的に否定するわけではないのですが、関係を別の方法に落とし込もうとしているというのか、語り方を教えてあげるじゃないけど、違う言葉で語りたい人を排除するようになるんじゃないかと思うんですね。本人たちは正解を求めているわけじゃないとは言いながらも、結局はどこか非言語状態にあるものを不正解としているように思いますし、コーチングのスキル化は、どうも単純化していってしまって、複雑な思想性を持たないままになってしまうんじゃないかと思うんですね。インファンティアを最初から切り捨てるというような。

大岡    マニュアル化ということですね。

佐々木   そうですね、マニュアル化の問題。僕とずっと一緒にやってきた三枝淳ってとても意識的な照明家がいるんですが、彼はコーチング・スキルを学んで音響、照明スタッフに、ダンサーたちが自分のやりたいことを伝えられるようにしようというセミナーを開いています。一度も顔出してないから、いい加減なことは言うなと怒られるかもしれないけど、その意図は分かるんですよ。自分がどうしたいのか人に説明出来ない実演家、ダンサーは多いし、必要になっているのも分かる。しかし、それは、ダンサーの特権を失わせるんじゃないか、という気もしますね。舞台の作法とは違う視点なり、他の思考を奪ってしまうような気がして、そこは相当気をつけてやらないといけないよ、とは思っています。それと、今度はコーチングが行き過ぎてるかな、とも思いますね。もっとモヤモヤと自分でも分からない、問題点も分からない、言葉にも出来ない、スッキリいかない、ホワイトボードに書けない部分があっていいじゃないか。というようなね。みんながみんなポストフォーディズムに無意識的に慣らされていくことを演劇人が率先する必要はあるのかな?と。

大岡    そうなんですよね。現代社会の中で、いわゆる感情労働のウェイトが増えてきている、だから演劇人にまでワークショップのお呼びがかかる、ということだと思います。そこで試されるのは様々なロールプレイですね。クレーマーが来たらこう対処せよとか、お客さんが来たらこういうふうにニコッと笑えとか、真心を見せろとか、そういう言い方で、要するに接客スキルを伝授する。接客スキルというレベルで、きめ細やかな様々な感情のパターン化とその能率の良いチョイスが、今ビジネスの現場で求められている、ということがあると思いますね。

佐々木   ここんとこ、派遣労働の面接に週に3回くらいに行ってるんですけど、やっぱりそこで求められるのはコニュニケーション・スキルですね。面接官がまずコミュニケーション・スキルの体現者として面接してくるんですね。これがもうほとんど同じ、この体現者たちの有り様は似通っているんですね。ちょっと体育会系で、威圧的でありながら、ヒューマンをにおわせる。最終的な就業条件の悪さを、体育会系的強引さと、情けの二通りで押し通すためですよ。

大岡    ドラマで見る刑事の取り調べみたいな、アメとムチの使い分けですね(笑)。なるほどパターン化されている。

佐々木   パターンがだいたい同じなんですよね。一日しか会わない人間を相手にしているつもりなんでしょう。一日しか会わない人と上手く接するように訓練していますし、意識してますから、大概の人は彼らのコミュニケーション・スキルよりも劣ってしまいます。しかし、そのコミュニケーションは完全に乗っ取られていますよ、部分の目的に。

大岡    人生に夢を持て目標を持てっていうつまらない説教と同じで、コミュニケーションも特定の目的に奉仕しなければならないんですね。私もフランクリン・プランナーというビジネス手帳を使ってますけど、自分の成長につながらないような無駄な時間は省け、そのぶん実り豊かな自由時間を増やせって書いてあります。しかしそれは裏返せば、「時間の浪費」がいかに人間にとって魅惑的かって話ではないか(笑)。

佐々木   夢の話で恐縮ですが、10年以上前に、安部公房が夢に出てきてですね、安部公房が「みんな他者との関係だって言ってるけれども、そもそも関係自体を問うてない。関係とは何か。関係の絶対性ばかり言い過ぎたんじゃないか。」なんて僕に言うんですね。これの関係の絶対性、そこから導き出されたコミュニケーション能力、コーチングスキル、感情労働、これらが人間として必要なこと、とされること。そしてまた、そこで判断しちゃう自分がいる、という怖さ。

大岡    「関係それ自体を問え」ってのは素敵な夢のお告げですね(笑)。そこへいくとレヴィナスの他者論なんてのは、実存的主体Aがあって、実存的主体Bがあって、両者の間に「関係」があって、その「関係」は時に「地獄」になる、というサルトル的な図式をさらに覆すものだったと思いますけどね。主体が想定できるかどうかも不明の存在こそが他者である。こういう、レヴィナス的な他者の絶対性はどうも浸透しませんね。

佐々木   今日も面接だったんですが、一緒に面接した隣の人が、とても馬鹿な人だった。何度も同じ質問をする。面接官と僕の間では、もう馬鹿だなあ、という空気が出来る。でも、この何度も同じ質問をする人の重要性があるんですよね。最初は僕も苛立つんですけど途中で気がつく。そうやって、変な空気が出来て、周りは明らかに苛ついているにもかかわらず、何度も同じような質問をしてしまう人っているじゃないですか。この人の譲れなさ。コミュニケーションを最終的にしたくない/しない、この人の在り方、上辺は何故か僕より上手く振る舞う人だったんですけど、だけど最終的なところで絶対に譲らない、強引な押しにも、情にも、丁寧な説明にも、因果を含めた物言いも、何も通じない。

大岡    よくわかります。

佐々木   この通じない人が問題になるわけだし、この人のその部分から内発的近代化がはじまらないことには、サバイバル出来ませんし、この人は排除されるし、同時に排除するでしょう、そこに気付かなきゃいけない。しかし、均一化されたコミュニケーション能力では一方的に排除される。排除したときには、どこか、この人が体現したような、一方的な譲らなさを、あらかじめ、前提として、システムに取り入れてしまっているんですよ。無自覚に、合意がとれたかのように。ここが危険なんですね。そして、このコミュニケーション・スキルによって道具化出来るものは、拘りがない部分のような気がします。自分にとって拘りのない部分だから、簡単にスキルによって道具に出来る。

大岡    TBSでアルバイトしていたことがあるんですが、テレビ局の社員なんて、逆にみんな「通じる人」ばかりでしたね。エリートであることを鼻にかけず、謙虚でスマートで朗らかで、話していても面白い。酒飲んだら「カストロもゲバラも希望の星だったよ」なんてうかつに言っちゃったりする。そういう理想と現実の折り合いのつけかたも、普通のサラリーマンより面白いなって思わせるところがありました。だけど、どの社員と喋っても「通じる」その感じが、だんだん気持ち悪くなってきて、結局は辞めてしまいました。でも世間ではああいうのを「コミュ力がある」って言うんでしょう。そんな具合で、コミュニケーションという言葉が氾濫しているからこそ、最近僕はワークショップを積極的に引き受ける気持ちが薄れてきているところがありますね。今コミュニケーション・スキルとして求められているのはどういう能力か。社会学者のホックシールドが『管理される心―感情が商品になるとき』という著作の中で分析していますが、彼女はアメリカ南部のデルタ航空という航空会社でフィールドワークしたわけだけども、そこで要求される接客スキルはほとんどスタニスラフスキー・システムであった、と。あたかもそこがあなたのお家の居間であるかのような、くつろいだ笑顔でお客様を迎えなさい。紋切り型のとってつけた様な笑顔はダメです、あくまで誠意のある笑顔をそこでみせるべきです。そのためには、魔法のifを使いなさい、というような教育がなされるんだそうです。これ非常に重要な指摘だと思うんですが。

佐々木   マジック・イフですね。

大岡    まさにそれなんです。スタニスラフスキーそのまんまの演技方法が、接客スキルとして採用されている。

佐々木   CMとかで笑顔の人っているじゃないですか。あの笑顔って舞台よりもシビアみたいですね。アップで見るから余計になんでしょうね。で、笑顔、そして目が笑うっていうのは、とても重要みたいですね。とってつけたような笑顔じゃないってことになる。すると、その笑顔は一つの価値になる。目で笑える人がすごい良いことなんだ、となってくると、ここで、僕はふと思うんですよ、目が本当に、心底、笑ってる奴って信じられないって。それって、何かを盲信してるんじゃないかと思ってしまいます。この人には内省能力がないんじゃないか、と思ってしまうんですよね。

大岡    洗脳されているかのように。

佐々木   洗脳されている。または、自己暗示かけている人は目が笑えますよ。

大岡    真心を込めてね。

佐々木   そう、真心を込めて。

 

シアトリカルな約束事としての市民的公共性

 
大岡    コミュニケーション・スキルと巷間言われているものの恐ろしいところは、まさにその「真心で接しろ」というところですね。嘘を言ってはならない、偽りの表情を見せてはならない、あなたの誠意を込めた対応を顧客は期待している。これがコミュニケーション・スキルの実態だと思うんですけど。ここでいきなりポスト・モダニズムに話は戻るかもしれないんだけれども、よく考えれば主体というのは、実は暴力的に構成されたものでもあるわけですよね、ミシェル・フーコーが教えてくれたように。だから、真心を込めた笑顔もまた、作られたものにすぎない。オリジナルの笑顔と見えるものは、コピーの笑顔に過ぎないのかもしれない。というようなポスト・モダン的な認識が、ここで非常に重要となってくる。ここであえてポスト・モダニストではなくモダニストとして僕が言っておきたいのは、コミュニケーション・スキルが過剰に言い募られ、ロール・プレイによって訓練される今の状況の中では、ブレヒトを手本として考えると、むしろ演技であることがあからさまに露呈しているようなコミュニケーションの方が、必要なのかもしれません。公共性あるいは公共空間なるものを想定しますとね、例えば法廷で発言するときは宣誓をしなきゃいけないし、裁判官は法服を着なきゃいけないし、国によってはカツラまで被らなきゃいけないわけですよね。議会でもああいう儀式はあるでしょう。つまり、セレモニーで誓約を立てた人間が、過剰な装飾を身に纏うことで、公共空間に初めて参入することを許可されるわけですね。シアトリカルな約束事としての公共性は、演劇であることがあからさまに露呈している演劇、演技であることがあからさまに露呈している演技によって、成立する。これが、ハンナ・アーレントが構想した、公共性という概念が指し示すものなんじゃないでしょうか。これは仲正昌樹がアーレントを評価して言うことだけども、アーレントはフランス革命とアメリカ独立革命を分けるわけですね。フランス革命は、要するに真心を込めた革命なわけですよね。ロベスピエールが、オマエ真心を持っているか、持っていない奴は処刑!という感じで裁きを下す。

佐々木    (笑)

大岡    一方アーレントは、アメリカ独立革命はそれとは違ったものと考えている。積極的な「自由」を含んだ革命として見ています。じゃあここで改めてアメリカに目を転じて、モダニズムって何だろうか、と問い直しましょう。例えば美術批評家クレメント・グリーンバーグによれば、メディウムがそのまま主題になるのがモダニズムだと。例えば、これは絵画である。絵画の最大の特性とは何か。平面性である。では、その平面性そのものを主題とし、平面性が「地」ではなく「図」として露呈している絵画こそが、自立したモダンな絵画である。言い換えれば、一枚の紙の上に遠近法を駆使して、あたかもそこに奥行きが存在するかのように見せ、平面とは異なる現実を映すんではなくて、例えばモンドリアンであれば、ブロードウェイを表現するのに幾つもの幾何学的な模様が並行させ、奥行きのないフォルムを平面上に露呈させます。これがモダニズムだ、というのがグリーンバーグの定義なんですね。これは演劇でいうと、ブレヒトの言う「異化」にそのままあてはまります(もちろんブレヒトの「異化」が目指すのは観客の覚醒=共産主義化ですが、そこは外して、形式的に考えます)。演劇であることが露呈している演劇の方がいい、観客に考えさせることになるから、というのがブレヒトの方法ですよね。だから演劇の場合も、メイエルホリドなりブレヒトなり、フォルマリズムの影響を受けた人たちはモダニズムの範疇に入ると思います。メディウムがそのまま主題になってしまっているというか、メディウムを背景にせず、むしろ前景化してしまう。
 で、話を戻しますと、演技であることがあからさまに露呈しているような演技的コミュニケーションが、これから求められる公共性のモデルではないか。以前、佐々木さんと劇場法に関して議論したことにも関係しますが、ここで問わなきゃならないのは、市民とはなんぞや、ということです。大衆と市民は違うんじゃないのか。大衆はそこにいる人をただそのまま即自的に認めた場合に大衆と呼ぶわけで、市民は大衆とはイコールではない。さっきの話でいうと宣誓した人間だけが証言台に立てるというような、なんらかのハードルを越した存在を、市民と呼ぶんだろうと思うんです。ホセ・オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』の中で、彼が言っているエリート主義あるいは精神の貴族主義というのは、これは内田樹が指摘していることですが、ニーチェの貴族主義とは少し違う。オルテガの言う貴族主義とは、つまり、市民になることなんですね。なさねばならぬ様々な義務を己の身に引き受ける覚悟をもって、発言し行動する。これが精神の貴族だ、ということですね。僕の言葉でいえば、大衆が国家なり社会なりを、いくらかは自分の意識の中に繰り込んだうえで、発言し行動する。その中では、演技的で偽善的な、ヒポクリットな言動も、約束事として許容されねばならない。真心じゃなくても別に構わない。そこにピューリタニズムは求めない。これが、公共性を担うに足る主体なんじゃないかと思うんですね。ニーチェの強者には、公共性に参入する意志ってのは感じられないんで、そこが違うということです。それで、僕は昨日インテリパンクさんとツイッターで議論しながら最後に思わず、俺はエリートだ、と口走ってしまったんですけれども(笑)。

佐々木   言い切ってしまった(笑)。

大岡    とうとう言い切ってしまった(笑)。俺はエリートだ、と生まれて初めて言ってしまった。お前なんなんだ、と問われて、俺はエリートだ、文句あっか!

佐々木   そこまでいってたんですねえ(笑)。

大岡    しかしニーチェ先生のように堂々としているのはなかなか難しい(笑)。もちろんこの場合のエリーティズムというのは、別に金持ちという意味でもなければ、知識が豊富だという意味でもないんですけれども、ただ、傷の舐め合いみたいなことはしない、という精神的決意ですね。真心が一番大事だとか、みんな一皮むいたら同じチョボチョボの人間やで、とかいう人間観はどこかで拒絶する、ということだと思うんですけれど。演技的な振る舞いを露呈させつつ、公共性の一端を担うという覚悟を持つということで、それを「市民」と言い換えてもいいんですが、とにかくそういう存在でありたいな、と考えています。だから、それは今までのワークショップみたいなやり方だとうまく示し得ない気がしていて、どうしてもワークショップという方法を選択した時点で、もう真心コミュニケーションの同調圧力に巻き込まれてしまう気がする。このような同調圧力は今の社会に急激に広がっていて、それは既にファシズムを形成していると思います。その中に、例えば橋下徹のようなビックブラザーが入ってきて、特定の誰かに呼びかけてるわけではないのに、呼びかけられた気になっちゃって、手を振り返すおじさんおばさんが、もうすでに出てきていると思うんです。こういう状況に対して私としては、近代的な市民を標榜して「俺はエリートである!」と宣言しておきたい、という大変乱暴な話でだんだん今日の議論は終息していくわけです(笑)。具体的な演劇の課題としては、ワークショップとか、アマチュアを積極的に舞台に出すとかとは、これから少し違うアプローチが必要になってくるんではないだろうか。そこで改めて、俳優って何なんだろう、ということが改めて問題になるような気がするし、あるいは演劇人としての仕事とは離れたところで、自分自身の人生の有り様みたいなことをもう少し公の場で明らかにしていけたらな、と思ってます。具体的に言うと、物書きとしてのスタンスもやはり確保しておきたい。今やっている仕事の中では批評家が一番それに近いと思いますけれども、批評って本来そういうものだと思うんですよね。

佐々木   大岡さんのfacebookで劇場法を巡るやりとりがありましたが、こうなってくるとツイッターやfacebookでは挙がってこない「個人の発言」というのをいかに出すのかというのが重要な仕事になってくるんじゃないか、というのは有象無象の市民の声が分子革命的に何かになるというビジョンがあったわけですよね。これはもうfacebookを見てもわかるように、もう実はfacebookやツイッターじゃそんなことは起きないですよ。ただのガス抜き、管理、調整されたガス抜きに感じますね。

大岡    全くその通りです。ソーシャル革命ってつまりコントローラブルな革命でしょう。そんなの革命じゃねえよ、って気がしますね。

佐々木   何のハードルもない状態で、誰が責任を持つのかと問うても、責任というものを持ち出すことがおかしく思えますし、無責任というものでもない。しかし、発言することで責任とは違う何かを果たし、デモに参加したら何かを果たしたことになる。だけどストライキとなると話は変わってしまう。本来、原発を止めることって出来るんですよね。原発労働者が全員ストライキすること。原発村の人々が全てストライキすること、基本的に原発利権に関わってない人たちはほとんどが、原発に反対でしょう。ですから、関わっている人たちがストライキをするというようになれば、原発の再稼働は出来ない。それができないということは、大岡さんも言っているように、他の人たちがよろしく労働して、賃金を稼いだり、他の利権にくいこんでおいしい思いをしているのに、なんで自分達だけやめなくてはならないのか。横断的なユニオンでもあれば、彼らに対して金銭的に援助したり、代わりの労働を紹介したりと、そういうことができれば原発再稼働ストライキも実現出来るんじゃないですかね。

大岡    そもそも日本の場合、企業別組合ってのがヘンなんですよ。あれって戦時中の産業報告会の名残なんだそうですね。高度成長期は、企業別組合は労使協調を実現した日本的経営の麗しき象徴ってことになってましたけど、今や、日本の労組は戦時体制に由来する本性をむきだしにしてきたと思っています。これは、「国民の生活が第一」を切り捨てた民主党政権の変質とぴたりと連動していますね。この後、連合はいつでも戦争支持に転ずると思いますよ。労働者が、同業の労働者と敵対関係に入ってしまうと、そりゃあ資本家のやりたい放題ですよ。闘争も何もあったものじゃない。

佐々木   総同盟罷業、ゼネストができない。このときに責任というのは浮かび上がっているように思います、亡霊のように。自分もこの世界の動きに加担している、という亡霊です。だけども、そんな亡霊には付き合ってられない。しかし、なんらかの活動はしたい、意思の表明はしたい。これで自分の責任を果たしていると胸を張って言っている人はいないかもしれませんが、デモに行かない人、反原発の発言をしない人に対して、どこかで、「責任を果たせ」と思っているんじゃないか、とゲスの勘繰りをしてしまいます。この責任って何か。聞いた話なんですけど、教育をする時に、契約とか利益の分配というものの教育論は進んでいるけども、責任の分配という教育論は進まないって聞いたんですよね。

大岡    無責任教育ですね(笑)。

佐々木   権利を教育者たちはとても重要視しました。権利に平等な契約、利益の分配と、人が生きて行く上で必要不可欠な労働とその対価という問題が含まれていますからね。これは明らかに重要です。しかし、同時に負わなければならない義務というのは、どこか、人にとって悪い側面のように思えるのかもしれませんね。義務には、おしつけられたり、規定されていたり、と内発的な近代主体を形成しなくなるんじゃないか、掟や慣習などといったことも入り込んでくるようにも思えますしね。しかし、市民になるためには義務が必要だと、公共の場の形成を考えると出てしまう。しかし、義務が権利を抵触すると、義務がただの搾取になる。権利を乱暴に扱っても起きないようなことが、義務を乱暴に扱うと起こるのではないかと想像出来てしまう。それは権利が個人、一人を守る為に、個人から訴えるものだとすると、義務は、個人に対して、共同体が、組織が訴えるものになるというものがあるのかもしれません。公的な場が個人に対して訴えるのも義務であるように。ここが義務の難しさですね。これなんか、大岡さんのお話しを聞いていて、得心しましたよ、市民がハードルを越した存在、かつらを被ったりなんなりという義務の象徴化ですね。

大岡    まあそこは敗戦国の泣きどころかなあ。日本国憲法は“実質的には”押し付けじゃないっていくら言われても、もう戦後民主主義の経験が継承されていないから、実感が湧かなくなっているんですよね。こうなると、加藤典洋氏が以前主張していたような「憲法の選び直し」は、どこかの段階で必要になるのかもしれません。手続きとしては、日本国憲法をいったん廃棄して帝国憲法に復帰し、その後、帝国憲法を改正する。できるわけないか(笑)。

 

●崇高な蛇に似たる蛇、高貴な市民に似たる市民

 
佐々木   話は変わりますが、真心問題ですが、今、真心がこれだけ支配的になっているときに、あるすごいCMタレントが出てきましたね。和民ってご存知ですか。(笑)

大岡    よく存じております(笑)。

佐々木   あの和民社長、渡邊美樹がですね、CMで、「真心を込めて」って言う時に、異化効果を感じますね。真心…皆知ってますよね、あの社長のいろんな発言を… (笑)

大岡    ブラックだと(笑)。

佐々木   これ自体別に、ただの現象として起こっただけであって。もう和民の社長は、真心がコピー、合い言葉として使えるから使ってるだけなのは当たり前で、ただ本人が出たがりだから社長が出ちゃった。そしたら、社長の発言を知っている人にとっては、この真心というメッセージは完全に破綻する。これが橋下だったらOKだったりするわけですよね。

大岡    そうですね。横に島田紳助がいればなお良かったかな(笑)。

佐々木   単純に役者がダメだったという話なのかもしれませんが、現在に蔓延る「真心」という言説を異化するという意味では、ブレヒト的な効果は出ましたよ(笑)。このCMによって大衆は真心の胡散臭さが分かったはずだ、考えるはずだと。

大岡    昔の自民党の政治家なんて、田中角栄が典型ですけど、顔つきも話しぶりも見るからに清廉潔白とは程遠い、普通のオヤジですからね。中曽根が首相をやったあたりから妙にかっこよくなっちゃうんだ。でも昔の政治家の方が、実は真心があったかもしれない。といってもあくまで結果責任ですが(笑)。

佐々木   話を戻しますと、精神の貴族というのは、澁澤龍彦がよく言っていたと思うんですね。それで孤高になるというか大衆にまみれないというような、超俗的イメージですね。そのとき三島由紀夫がですね、高貴なる野蛮人って言うんですよね。

大岡    言いますね。

佐々木   精神の貴族と高貴なる野蛮人の違いってあるのかなって思った時に、それを三島由紀夫は東大の学生たちに言ってるんですよね。

大岡    東大全共闘ですか?

佐々木   全共闘に向けて。やっぱり野蛮人になれないだろう、ぶってるけど。東大全共闘を僕が嫌いなのは、ヤクザの真似をして、俺達ヤクザだし、背中で泣いてるなんちゃらと気取るじゃないですか、でもヤクザじゃないし、皆。親、懲役行ってないし(笑)。

大岡    あの橋本治のポスターは自己批評を含んでいると思いますけど、おっしゃることはわかります。呉智英先生に「テロルとはインテリの悲しき玩具なのだよ」という名言があります。私は「居酒屋急進主義」と呼んでます(笑)。にっかつロマンポルノで軽―くエロスに触れたり、中上健次の小説で軽―く暴力に触れたりした、ただの酔っ払いのゴロツキが、なんちゃってエロスやなんちゃって暴力で、後輩を恫喝するってやつですね。居酒屋で隣にいたら迷惑ですが、社会全体から見れば全く無害な人たちだ。いやでも年金丸儲けの食い逃げ世代だから本当は無害じゃないけど(笑)。

佐々木   まっとうな社会を形成する人達じゃないですかって。

大岡    刺されたりしてないし(笑)。

佐々木   そう、刺されてもないし、刺してもないし。子供のときに盗みにあけくれてたわけでもないし。だから、高貴なる野蛮人じゃなくて、ただの野蛮人ぶってる低俗な輩だろお前らはということでしょ。だったら高貴なる野蛮人に徹しろと。一人一殺できるのか、天皇を担ぎ上げられるのかと。天皇を担ぎ上げるのは、もう野蛮人ですよ。市民じゃないですよ。というところだったんだと思うんですけどね。それができないくせに野蛮人ぶりやがって、土民でもないくせにみたいな。土民のくせに土民ぶってないというアレはちょっとややこしいのでおいときます。

大岡    野卑なることを徹底すれば、それが尊いものに転ずるという、逆説というか、弁証法というか、そういうものがあるじゃないですか。だから、野蛮であることに徹しられない魂は高貴にもなれないし、高貴を知らねば本当の野蛮も味わえない。つまり皆プチブルだという話ですよね。

佐々木   森敦の『意味の変容』の中で崇高な蛇と崇高な蛇に似たる蛇というのが出てきますね。崇高な蛇に似たる蛇は、とても潔白なんですよ。綺麗な。何か戦いがあるとワーッと行けちゃうんですけど。崇高な蛇というのは、ちょっと淫靡なもので、ジトジトして行けないんですよね。戦いに。あれを何故、森敦が書いたのかってたまに感じるんですけども。崇高な蛇に似たる蛇、だからそれは市民に似たる市民というふうに置き換えられるんじゃないかと思いますね。市民に似たる市民ほど、さっきの義務、ハードルもないし大衆を全部市民だと言えちゃうし、幻想の市民の中でいける。デモがある社会が重要なんだとか平気で言えちゃうんじゃないかと。

大岡    それだ!

佐々木   だから市民に似たる市民である限りは、徹底して土民だという認識が必要なんじゃないかと思いますね。または臣民。こういう認識がなければ何も感じれない。飴玉のように市民があるというか。

大岡    ここは佐々木さんと僕で意見が異なるかもしれないんだけど、僕は天皇は必要だという立場です。ただし、それは「土民の長」としてではなく、立憲君主としてです。天皇機関説です。国体明徴運動でさんざん痛い目を見た美濃部達吉が戦後、明治憲法復帰論に立ったのは重要な事実だと思っています。この点に絡んで、現代の右翼思想家たちが、蓑田胸喜をどう総括しているのかが非常に気がかりですけどね。

佐々木   解体社の清水さんから聞いた話でちょっと覚え違いしているかもしれませんが、柄谷・浅田と中上健次。昭和天皇が死んだ時に、二重橋から皇居に向かって跪いてる人たちを見て、柄谷・浅田が「土人の国」と言った。それを中上健次が、日本語を使ってる時点でそういうことを言う資格はない、と。

大岡    中上って人はやっぱりインテリを恫喝させると面白いね(笑)。

佐々木   土民だろ、最初から。何をぶっているんだ、と。

大岡    市民に似たる市民というのは知識人がまさにその典型じゃないですか。

佐々木   そうですね。明治の知識人が市民に似たる市民をやろうとした、市民を演じようとした。そのような典型的な知識人たちが大逆事件の中で全く市民じゃないってことに気付くのが、明治知識人の近代主体の挫折になるわけです。このことを踏まえていないんじゃないかと思うことがありますね。大逆事件のときは身の危険が及んだわけですよね。勾留されるとかではなくて、殺されるという中で大逆事件にものが言えたか。その目の前にくる生物的な死と、その発言をすることによる社会的な死などなどから、沈黙し、転向し、市民主体ではないことに気がつき、臣民主体であることを痛感した永井荷風などのような知識人と、今の市民振りは、なんというのか、個人的なリスクが少ないですから、市民しやすいですよね。もちろん、途轍もなく大きな被害を受けてやっている方もいると思うので、全てとはいいませんけどね。

大岡    特にネット社会だと、評論家ぶった床屋政談を「発信」するのがそのまま「運動」だって短絡しがちですね。

佐々木   ちょっと意地の悪い見方をすると、山本太郎がリスクを抱えて、市民主体をやっているか、というと、最初から芸能人を選んだ時点で、リスキーですよね。原発関係ない。視聴者の辛辣な視点は、そういえば、騒動で干される前から、干されてなかった?的な視点だったりしますからね。

大岡    そういや『難波金融伝・ミナミの帝王』も途中で降板したよな、とか(笑)。

佐々木   僕は、あなた芸人だったら、もっと面白くやんなきゃいけないんじゃないのと思いました。中途半端にさっきの湾岸戦争で真面目に転向しちゃったアーティストみたい。あれは食うに困ったんだと僕は思うんですよ。だから転向して新たな食い扶持を探そうとした。

大岡    トレンドを追った訳ですね。

佐々木   メディアに露出できるものを追った、というような気がしてならないですね。転向の問題はちゃんと考えなきゃいけないと思うんですよね。そうそう、また話を戻してあれですが、フランス革命とアメリカ独立革命の違いってとても面白いなと思ったのが、フランス革命って王は殺すわけですけども、いわゆる西洋主体においては、キリスト教主体においては神の下のサブジェクト、主体なんですよね。神が主体を授けるというのがある。だから王殺しをやりながらも彼らは、次の王様が生まれる。まあナポレオンなんかが出てくる。王だけを殺したというか。アメリカ独立革命ってすごいのは、まだ続いているんですよね、今でも大逆なんですよね。ずっとイギリス女王に対する大逆を働いたまま今も続いている。もちろん、イギリスはアメリカの独立を認めていますが(笑)。

大岡    なるほど。

佐々木   継続中の大逆と見ると少し面白いです。

大岡    アメリカ人って、お互いの出自は問わないって言うしね。お前どこから来たんだとアメリカで聞くのはタブーだそうですから。

佐々木   それは聞いちゃいけないですよね。日本は平気で聞きますけど。そのへんは面白いかなと思いますね。

 

大岡淳の近代エリート宣言!

 
佐々木   話は変わりますけど、というか、本線に戻しますが、大岡さんは市民というハードルを越した存在に向けてものを作っていく、またはそういう活動を構想中ですか。

大岡    そうですね、これからはそういう路線が必要だと考えてます。

佐々木   普通劇場というのはそういう意味では、大岡さんの仕事でいうと、教育の系統にあると思うんですよね。

大岡    そうです。普通劇場は今までの路線の延長線で残しますが、ただこれからは、ベタに教育に関わる仕事は少しづつ減らしていこうかなと思ってます。ただ普通劇場は、00年代に試していた、舞台空間における民主主義の実験場としてキープしておきたいんですけれどね。

佐々木   それを劇団、劇団って言っていいんですかね、その集団に関わる人達が、自分達の内発的な近代主体を獲得していくか、というのがテーマの一つになるわけですか。

大岡    そうですね。ただ一般論としては、教育ってすごく能率の悪いもので、キリがないんですよ。十把一絡げにはできないんで。学校の先生ってホント大変だなと思いますけど、自分の目についた人間にしか関わることができないのが、教育ってジャンルのジレンマなんですよね。どれだけ世の中が便利になっても、演劇と似ていまして、対面のコミュニケーションを欠落させると成立しないという変わった性質が教育にはあって。そこで、地道にワークショップを続けて、大岡チルドレンを増やしていく、ディセミナシオン(散種)するのは面白いんですけれど、キリがないなと。それよりも今やってみたいのは、主体化がなされた姿というのはどういう姿のことを言うんですか、という問いかけに答えてみたい。実際あなたに教育を受けて私は私自身で判断することを学びましたが、だけど周りの人たちは皆劣等感に苛まれていて、いや実際に劣等感があるかないかに関わらず「実は私も劣等感の持ち主なんですよねエヘヘ」とか言って、伏し目がちにすることがコミュニケーションの流儀になっているじゃないですか、と。こういう疑問にどう答えるか。

佐々木   そうですね。

大岡    こんな卑小な私って言うわけですよね、野蛮人でもないくせに。ちょっと卑小な私をお互いにさらしあいながら傷を舐めあう、というのがコミュニケーションの流儀でしょう。

佐々木   小劇場のメインテーマですね。

大岡    その通りです。小劇場のみならず、どこでも「イタい」ってのがキーワードになってますね。そういう状況をどう超えるか、高貴なる野蛮人の有り様とはどういうものなのか、ということを、積極的に舞台でもいいし文章でもいいんですけど、なんとかもうちょっと積極的に提示していけないか、と考えてます。そしてその作業を通して、もう一度僕はやっぱり西洋に帰っていきたいというか、90年代に問題にしていた、西洋の脱構築という課題に改めて戻っていきたい。西洋の多様性を言い募っても、なかなかそれがオクシデンタリズムの構造をゆるがせにできないのであれば、ではその西洋の一体性を担保しているものとしてのモダニズムとは何かを考えたい。多様性にこれまで目をやっていたけど、にも関わらず、西洋を西洋として我々が一つのものとして見てしまうのは何故なのか。その根本にはモダニズムがある。要するに、複雑な要素を抽象化していく、単純化していく、還元していくという運動ですね。その西洋的なモダニズムを、自分自身も体現していくような表現活動というのができないだろうかと、漠然と考えているんですけれど。ただモダニズムってやっぱり難しいのは、結局モダンなアバンギャルドというのはブルジョア文化と対抗関係にあるからこそ成り立つんで、本丸のブルジョア文化が崩れちゃうと、宙に浮いちゃうんですよね、その存在がね。やっぱりエリーティズムといいますか、選良たちはそれを理解してくれる、という共同性、公共性を前提としなければ、モダニズム芸術のゲーム性はなかなか理解されないというところがあります。だからあんまりこの路線で突っ走っちゃうと、日本の中ではまた何の理解者も得られずに浮き上がっていく、という罠に嵌りそうな気もしていて、さてどうしたものかなと。しかし高貴なる魂であることはやめたくないし。もうねえ、「学歴なんか意味無いっすよ」みたいなことを言いたくないんですよね、かといって「学歴が大事だ」と言いたい訳でもないんだけど。

佐々木   でも、社会のシステムは学歴などの要素で動いてるわけですし、じゃあ学歴意味無いっすよと言っても、その意味ない世界を展開できるかといったら、あなたと私でいるときにしかできない、というジレンマですよね。学歴要らない、君は君だ、それでいいんだ、じゃあ、僕は僕ですね、でも、欲望も満たしたいし、社会的地位も欲しいんですけど、どうしたらいいですか?って言われても困りますよね。僕が上げられるものでも、僕がOKだよ、と言っても叶うものじゃないので (笑)。

大岡    主観の中でしか成立しないヒューマニズムですね。それはガス抜きにしかならないですね。

佐々木   行き詰るんですよ。学歴なんか意味無いよって、飲み屋で二人で会ってる時なんていくらでも言えるし、僕とあなたの関係には意味が無い。しかしあなたが社会的に成功しなかったり、社会的に不満を抱えるときには、やはり学歴が出てくるだろう、でも学歴を跳躍することも可能だと、でもそれにはやっぱり何らかの社会が学歴に準じて認めているものとの戦いが必要になる。それも要らないってなら、もう社会形成やめようぜ、という手も一つはあるんですけど。新しい村作るとか。

大岡    イギリスでは、労働者階級の親父が仮に成金になったとしても、階級文化は捨てないというんですね。急にタキシードを着たりはしないし、言葉使いも改めない。野卑なる労働者階級の文化をそのまま継承した状態で成金にのし上がっていくんだそうです。階層格差が今の日本に生まれてきていることに一つ意味があるとすれば、格差があるからこそ民主主義が必要だってことが、これで再確認できるんじゃないか。現実には自分は不遇であるという人が、まさにそこにおいてだけは対等な一個人として認められうる、公共性を担保してくれることが近代の民主制ってものの一つの良いところだと思うんですよね。日本は今まであまりにも格差が隠されてしまっていて、また格差を隠せる程度には経済力があったわけですが、慢性的な不況になってしまって、だんだん格差が露呈して、階級としか言いようのない実態が見えてきている状況だからこそ、そこを「学歴なんか意味なくて最後は1人の人間だよね」という真心ヒューマニズムで誤魔化すのではなくて、学歴がすべてじゃないんだったら、じゃあどこにおいてならば我々は対等に話ができるのか、それをはっきりさせなきゃいけない、そのステージを作らなきゃいけない、と思うわけです。それはただし、即自的に生きているあなたを肯定します、という話にはならない。学歴がすべてじゃないよね、そこで寝転がってるあなたも素敵だよ、ということではなくて。学歴がすべてじゃないんだから、自分よりも階級が上の連中と話をする時くらいはちゃんと身支度しなさいよと。多少の弁論術は身に付けてみたらどうかねと。あるいは、奴らと話をするためにゲーテくらい読んでみてはどうかねと。副産物だけど、『若きウェルテルの悩み』読んだら君モテるかもしれないぞ、と。

佐々木   僕の戦略じゃないですか(笑)。

大岡    佐々木さんの未生文庫にかなり影響されてますね (笑)。でも普通は公共性って、軍事的な義務で担保されるんだと思うんですよ。徴兵によって公共性が作られると思うんだけど。我々は良かれ悪しかれ9条を持っているし、もう少子高齢化で威勢のいいこと言っていても仕方ないわけだから、じゃあその軍事的義務を取っ払ったところで、いかなる社会的義務が生まれてくるのかを考えよう。そうすると、あえて手弱女ぶりといいましょうかね、益荒男ぶりではない社会参加の姿勢が見えてくる。つまり、文芸を媒介として、我々はヘナヘナなんだけど、ヘナヘナなりにしっかりやるんだと(笑)。日本文芸のヘナヘナ・ユマニスムの伝統を継承していくのが、我々の市民としての責務である。ちょっとナショナリスティックですけれどね。

佐々木   いや、貧困が激しいときの兵士って、これは洗脳されているのか、そういう文脈作られているのか分からないですけど、みな口揃えて兵隊になって良かったと言いますね。飯は食えるし、しかも前に何をやってたか問われない。でも、こういった天皇の赤子は平等である的な言説とは別に、やっぱり前に何やってたかは問われてたんだよ、というのが『神聖喜劇』ですね。何々中尉の前身は何か。これの答えは少尉なんだけど、違う意味合いが隠れている。それは被差別部落出身じゃないか、というのを匂わせてしまう。もちろん、被差別部落のイジメもあったし、しかしそれは、一応は同じ一兵卒だ、大学出でも士官候補しなかったら一兵卒になる、そこでは学歴も何もない、ある意味夢の空間みたいなものがいきなり開けたというのがあったわけですよね。

大岡    野村芳太郎監督『拝啓天皇陛下様』『続・拝啓天皇陛下様』で、渥美清がまさにそれをやっていますけどね。

佐々木   いわゆる天皇の赤子。天皇の下においてすべてのものは平等であるという考え方が出ちゃうわけですよね。

大岡    赤木智弘さんの『「丸山眞男」をひっぱたきたい』ですか。あれもまさにそういうことですね。今戦争があれば、軍隊の中のフェアネスによって我々は救われるのではないか、と。ただそこで天皇の赤子という、まさに重要な側面がネグレクトされてます。

佐々木   それがちょっとおかしい。それがなくなったら何のための。結局われわれの幻想市民というのは、平等性において天皇にも勝てないんですよ。大衆はすべて平等だよね、とやれないし、ハードルのある市民をやれるかといったら、何となく市民になろうと。右翼の他者排斥も変ですよね、天皇陛下許すわけないよ、と勝手に心配しちゃいますが、だってマレビトを迎え入れてきたじゃないかと。階級の違う者をどうするのかというところに、今の民主主義があるわけですよね。古代ギリシアモデルの民主主義が成り立たないのは、古代ギリシアでは市民が強いんで階級を飛び越してないんですね。市民の中の貧富の差も政治的発言においては関係なかったように思えますね。

大岡    古代ギリシアの場合は、奴隷とか女・子供とかいろいろ排除したうえで成り立つ市民社会ですからね。

佐々木   ハードルを超えた市民達、というのをモデルにしているんで、やはり、そう考えても市民というのはハードルを超えた存在ですね。ただそのハードルが見えない、だからいきなりデモの時とか市民というのが作れる。そこが良いところと言えば良いところですが、思想的なものを持ち得ない、というのは、さっき言った市民の構築のなさ、弱さとでもいいましょうかね。そこで大岡さんが新たにもう一度試みようとしているのが、モダニズム、それはある意味市民の構築だと思うんですけど。

大岡    グリーンバーグの言い方だと、アバンギャルドとキッチュを分けています。ブルジョア文化に対する対抗文化としてのアバンギャルドが劣化して、キッチュが作られる、とグリーンバーグは考えている。僕らの言い方だと、ここでいうキッチュはサブカルチャーですね。カウンターカルチャーからサブカルチャーへの変遷を想起すれば、まさにその通りですよね。キッチュでは、即自無媒介に大衆の今の有り様を肯定するようなものにしかならないんで、ガス抜きですね。そうではなくて、少し背筋を伸ばしたカルチャーはやっぱりなきゃいけないのではないか、キッチュだけじゃダメなんじゃないのか、と最近は思うようになりました。

佐々木   キッチュがよりキッチュになっちゃいましたからね。

大岡    そういうことです。それこそ徴兵制があれば、軍隊がいろんな礼儀作法や、他人のことを大事にする気持ちを叩き込んでくれるのかもしれないけど、まあしかし徴兵は勘弁してほしいし、現実的にもそう簡単に憲法を変えられるわけじゃないですから、だとすると、抽象的な話になってしまいますが、僕らが関わっている文化芸術というジャンルの中でも、アバンギャルドとキッチュの間に線は引けると言っておきたい。あるいは、モダニズムとキッチュの間に一線は引けるんだと。その一線を飛び越すことは、市民になるためのハードルを越す、一つのケーススタディにはなるんじゃないか。そして、ハードルを越した先にあるものはこれだ!ということを見せたい。ということで、今日は私は胸を張って、私は文化的なエリートです、と宣言しておきます。いや、滑稽であることを承知で言うんですけれど……えーと、今初めて三島由紀夫の気持ちがわかった気がしました(笑)。近代エリートの大岡と申します!

佐々木   それがホームページのタイトルにならないことを祈ります(笑)。

 

大岡淳

 
 
[2012年6月6日、駒込・未生文庫にて]