鏡に映るデーモン ~大岡淳の演劇論~
以下は、この私の本音として語る演劇論である。本音という意味は、私にとって舞台の創作は既に生活の手段の一部となっているため、現実問題として、このような理念をいつも創作に反映させるわけにはいかないということである。いやひょっとすると、私は死ぬまで、このような理念を体現した舞台を創作することはできないのかもしれない。だが、記しておこう。
林達夫・久野収『思想のドラマトゥルギー』が見事にやってみせたように、世界を劇場と見立てて解読していくという演劇的思考が、かつて根強く存在した。花田清輝や福田定良を想起してもいい。山口昌男や中村雄二郎あたりまで含まれるかもしれない。しかし現実には、このような演劇的パラダイムが失効するところから20世紀が始まったわけで、問題は質じゃなくて量だ!といわんばかりに、視覚的イメージが氾濫したのが、大量生産・大量消費の20世紀であった。つまりそれは、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」において予見されていたように、映画的パラダイムの時代だった。ギー・ドゥボールに倣ってスペクタクルの時代と呼んでもいい。
そもそも散文優位の時代である近代において、演劇は、韻文優位の時代である前近代に存在した音読共同体へのノスタルジアを喚起し、ナショナリティを補強する装置として、小さな役割を背負わされたのだろう(その点で詩というジャンルと近接している)。だが20世紀に入ると、もはや演劇は世界解読のメタファーとなりうる明快なドラマを語りえなかった。しかしそれはべつだん嘆くべきことではなく、文学から解放されたところから小説が始まるという逆説が存在するのと同様、ドラマから解放されたところからシアターが始まるという逆説もありえたはずで、およそ何にも貢献できないことを承知の上で、なぜか演劇でしかできないことを突き詰めてしまう野蛮さが、20世紀以降に演劇を実践する根源的な条件なのだと思う。
そして、そのような演劇は、その野蛮な本性からして、音読共同体へのノスタルジアからむしろ逸脱してしまう。例えばタデウシュ・カントールが演出した『死の教室』がその好例だ。イディッシュ語の音読練習の機械的反復が延々と続くこの舞台を観よ。生き生きしているはずの音読は、死者の声として発せられているではないか。あるいは例えば、アントナン・アルトーが提起した「器官なき身体」を想起せよ。これも、今日の演劇人たちが嬉々として語る、あのナイーブな「身体性」とは無縁である。「身体性」は、時に「言語」、時に「思考」、時に「意識」に対置され、直接性を間接性の上位に置く二項対立を構成する。ところが「器官なき身体」はどうか。言うまでもなく「器官」は「身体」と不即不離であり、「器官」対「身体」という二項対立は成り立つようで成り立たない。つまり「器官なき身体」とは自己破綻、自己矛盾でしかない。にもかかわらず「器官なき身体」をアルトーは明視した。それは、概念化ができない概念、イメージ化ができないイメージであり、形而上学を脱臼させる何かである。
理性の支配に対して身体性の復権を唱え、二項対立=形而上学を延命させ、コミューン幻想を強化し、疎外論の水準にとどまり、その結果として、単なるガス抜きとして機能し、社会構造を見失わせ、反動的な役割を果たすことしかできないのが、近代において演劇が抱えた根本的な条件であるとして、そのことを冷徹に批判し、演劇の自明性を否定して尚、演劇を志向すること。それは、もはや合理性を超えた選択だといっていい。まさしくアルトーの狂気がそうであったように。かつて丸山真男は『日本の思想』で、こう言っていた。
世界のトータルな自己認識の成立がまさにその世界の没落の証になるというところに、資本制生産の全工程を理論化しようとするマルクスのデモーニッシュなエネルギーの源泉があった。しかしながら、こうした歴史的現実のトータルな把握という考え方が、フィクションとして理論を考える伝統の薄いわが国に定着すると、しばしば理論(ないし法則)と現実の安易な予定調和の進行を生む素因ともなったのである。
ここで「デモーニッシュ」の1語を選んでいる点に、丸山の圧倒的な鋭さを私は見る。それは、まさに合理性を超えた選択を形容する言葉である。私なら「毒を以て毒を制す」とでも言いたいところだ。ところが現実には「薬を以て毒を制す」輩が後を絶たない。彼らのおめでたい「予定調和」は、現実を見失わせる点で、もはや利敵行為ですらある。いや、日本のマルクス主義が「予定調和」に陥っただけではない。「世界のトータルな自己認識の成立がまさにその世界の没落の証になる」という不可解な方法論を、理解可能な共産主義革命論へと読み替えたレーニンの『国家と革命』からして、既に「予定調和」だったのではないか。いわんや演劇人をや。
むろん、資本制下における人間疎外は厳然たる事実である。だが、無媒介に疎外の克服を志向したところで、それは、根本から物事を解決したことにはならない。むしろ、安易なユートピア主義によって、解決を先送りにする点で有害ですらある。では、いかにして社会構造にメスを入れることができるかと言えば、繰り返しになるが「毒を以て毒を制す」ことによってであろう。そして、社会構造が分泌する毒は既に私の体内をも侵している以上、毒を制す毒をまっさきに仰がねばならないのもまた、この私である。「世界のトータルな自己認識の成立がまさにその世界の没落の証になる」。そこで、世界のグロテスクな模造を演じ、自己認識へと畳み返す媒介となって、世界の没落を招来するのは、この私である。毒を制すべく毒を仰いだこの身を人目にさらすことこそ、私にとっての演劇という行為である。そのとき私の身体は「器官なき身体」と化しているのかもしれない。
さあ、全てのヒューマニズムを破壊しよう、人間のために!