東京地検特捜部が起訴をあきらめた小沢一郎を、「検察審査会」がやっぱり起訴しろ、と言っているんだそうですね。「秘書の不正を当人が知らなかったはずはない」という「市民目線」に配慮した判断だそうですが。
「検察審査会」って何なのかと言えば、ウィキペディアには「検察審査会の議決は、検察官の恣意的な判断によって、被疑者が免罪され、犯罪被害者が泣き寝入りする事態を防ぐという役割を有する」とあります。その意義はよくわかります。検察が権力者に迎合したり、あるいは、冤罪を生み出したりすることを、抑止する制度だということですよね。で、今回「検察審査会」は「市民団体」の訴えを受け入れたということだそうですが、その「市民団体」が「犯罪被害者」であるという論理はそもそも成り立つんですかね?「虚偽記入」ってのは、「検察審査会」が「犯罪被害者」の心情を斟酌し介入するほどの、重大犯罪なんでしょうか? その「検察審査会」が、「小沢一郎のイメージダウン」を狙う恣意に流されていないと、どうして言い切れるんでしょう?
と書くと、黙れ小沢信者!と叱られそうですが、これは自民党支持か民主党支持か、なんて関係ない話です。司法の中立性が損なわれ、「国民感情」を盾に取った検察ファッショに道を開きつつあるということが、最大の問題でしょう。とりわけ、裁判員制度の導入だの、検察審査会の権限強化だの、殺人罪等の公訴時効廃止だの、昨今の「司法改革」は、いずれも「被害者やその遺族の心情を配慮せよ」という「国民感情」を尊重した結果だと言われていますけれど、しかしそんなことを言うのであれば、「仇討ち」の方がよほど「国民感情」に見合っている。私は法律の勉強をやったことはないですが、ここで言う「国民感情」なるものは、言い換えれば「応報感情」というやつでしょう。
「応報感情」に迎合する「司法改革」って、素人の考えですが、「罪刑法定主義」という近代司法制度の根幹をゆるがす愚行、自殺行為なんじゃないですか。思えばヒトラーは授権法(全権委任法)というメタ法律を制定して、「緊急事態」を永続化させ、独裁を実現したわけです。「法を超える法」は往々、司法エリートの専門性を批判し「大衆の味方」を偽装しながら、現実には、特定の権力者の恣意に貢献することを防ぎえない。私たちはそういう危険な時代に突入しつつある。これもまた、小泉構造改革の負の遺産であると言えましょう。