昨秋、ベルトルト・ブレヒトの代表戯曲『三文オペラ』を翻訳いたしまして、株式会社共和国から単行本として出版されましたので、改めてお知らせ申し上げます。また、この刊行を記念する連続トークイベントを、2019年2月6日から3月2日まで、東京・横浜・静岡・大阪・西宮・岡山・福岡で、豪華ゲストを招いて開催いたします。ぜひ御参加下さい。

 ブレヒトは、いわゆる「異化効果」を方法論として提起し確立した人物であり、その演劇論・演技論に、私が最も影響を受けた劇作家・演出家であります。「異化」とは、平たく言えば「見慣れたものを見慣れないもののように示すこと」であり、これにより作品の創作者も享受者も、資本制というシステムの中で自明だと思われている「現実」に対して、それが実は自明でもなんでもなく、変更可能な構築物に過ぎないことを知るというわけです。そしてブレヒトにおける「現実」の変更とはすなわち、共産主義革命を意味しております。演劇の文脈に限定するなら、「異化」とは「同化」の対立概念です。観客による役への感情移入(すなわち「同化」)に水を差し、役を客観的に提示するのが「異化」的な演技だということになります。

 『三文オペラ』は、そのブレヒトの代表作でありまして、ジョン・ゲイの『乞食オペラ』をブレヒトが現代版として翻案した、1928年に初演された作品です。19世紀末、女王即位の戴冠式を控えたロンドンを舞台に、犯罪仲間の情報を官憲に売り渡して恥じない盗賊王マックヒースと、ニセの乞食を街角に立たせてお恵みをかすめとる起業家ピーチャムの、狐と狸の化かし合いを描いたドタバタ音楽劇でして、ブレヒトの盟友クルト・ヴァイルが作曲した、シンプルなメロディの中に突然ギクシャクと無調感が噴出する、「真剣な冗談」とでも形容すべき、パロディックで奇天烈な歌の数々が、全篇を彩っております。ブレヒト自身の「異化」は、この段階ではまだ方法論としてこなれてはおりませんでしたが、「ピカレスク・ロマン」を期待する観客を幻滅させる「悪をすら裏切る悪」を描いたのは、観客の意識を「そもそもなぜ悪が生じるのか?」という問いへ転換させる「異化」の試みに違いありませんでしたし、処刑される「悪漢」への同情を喚起しながら、そのカタルシスをぶち壊しにするあの有名な「ハッピーエンド」もまた、「異化」の典型例として長く語り継がれることにはなったわけです。しかしそれ以上に、物語を脱臼させるような、ヴァイルの作曲の「真剣な冗談」ぶりこそ、『三文オペラ』全篇に散りばめられた、最大の「異化効果」だったという印象を受けます。

 この戯曲を執筆するに当たって、ブレヒトは、プロレタリア演劇の限界をどう乗り越えるかという課題を背負っていたと推察されます。資本家=悪と労働者=善を対立させ、最後には後者が前者を打倒するといった類の、おめでたいプロパガンダに対してブレヒトは批判的であり、こんなものをいくら上演したところで、ガス抜きにしかならないことを知悉していました。プロレタリア演劇などほとんど消え去ってしまった今日もなお、民衆蜂起を「感動的」に描く演劇や映画など山のように存在するわけで(例えば『レ・ミゼラブル』のような)、それらを鑑賞した観客が、劇場や映画館を一歩出たとたん暴動を起こしたなどという話は、聞いたことがありません。それらは飽くまで、理不尽な権力を打倒した気分だけをシミュレートする娯楽に過ぎず、ガス抜きより以上の機能を果たすことはありません。むしろそれらは、想像の中でだけ疑似的な解放感を供給し、「明日への活力」を再生産するドラッグであり、資本制を積極的に補完する装置に過ぎないと言えましょう。

 そこでブレヒトは “演劇を批判する演劇”を創造する必要に迫られ、ひととき空想の世界で解放されたくてチケット代を払った人々に対して、あえて冷徹な現実を突きつける演劇を目指すこととなりました。ブレヒトが狙ったのは、感情が高ぶっているときに、同時に思考を働かせるレッスンであったと言えましょう。そしてなぜそんなレッスンが必要とされたかと言えば、それは、スペクタクルをシャワーのように浴びせて、常に感情を刺激し、欲望を喚起し、感動を強要する社会の中で、かろうじて正気を保つためだったのかもしれません。

 そんなわけで、『三文オペラ』の世界観においては、資本家=悪・対・労働者=善という二項対立は成立しませんし、勧善懲悪的な物語も成立しません。むしろこの芝居に登場するのは、泥棒や娼婦やルンペンといった、都市の底辺を蠢く有象無象ではあるわけですが、しかし彼らの価値観はむしろ――ブレヒト自身の説明に従えば――「ブルジョア的」です。赤貧の「負け組」こそが、その意識においては、過剰に「勝ち組」に同一化し、裏切りに裏切りを重ね、他人を出し抜き蹴落として、自分だけは椅子取りゲームの椅子に座ろうとするのです。そして逆に、既得権を手放さない「勝ち組」こそが、むしろ弱者に手を差し伸べるという偽善によって、体制の安定と精神の平衡を保つのです。どこかで聞いたような話ですが、このような「負け組」と「勝ち組」の奇妙な共犯関係を、面白おかしく描いているのが『三文オペラ』です。

 共産主義は失効し、ブレヒトの思い描いた理想は過去の遺物となり果てましたが、しかし資本主義というシステムは、地球という惑星を食い尽くし、己自身を飲み込んでしまうまで止まることはなく、今もオートマチックな運動によって肥大しつつある最中です。このような「現実」は、本来は誰かによって作られたものに過ぎず、決して動かしようのない「自然」でもなければ「運命」でもない。そのことに気づかせてくれるという点で、ブレヒトの批判精神は今も有意義なのではないかと思います。
 
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『三文オペラ』
ベルトルト・ブレヒト著 大岡淳訳
発行:共和国
価格:2,000円+税
ISBN:978-4-907986-49-0

ミセス・ピーチャム (目覚めて)出た出た、「お情け」とか「気遣い」とか、またそういう偽善的なパフォーマンスだ!

ナチス・ドイツ成立前夜、劇作家ベルトルト・ブレヒトと作曲家クルト・ヴァイルがタッグを組み、おゲレツな物語とキテレツな音楽により、都市にうごめく有象無象(マルチチュード)を活写した、痛快無比の音楽劇――それが、『三文オペラ』だ。大岡淳による新訳は、現代口語から七五調、ラップまで駆使して、ブレヒトの騒々しいテキストを日本語化。ヴァイルの作曲で歌える訳詞も作り上げ、原作と同様に音楽性あふれる、日本語の現代戯曲へと転生させた。ヤンキーもおたくも、右翼も左翼も、金持ちも貧乏人も、不穏な時代を生き抜く反=教科書として、今こそ読むべし『三文オペラ』! ブレヒト自身による解説、音楽批評家・平井玄によるブレヒト論、ミュージシャン・大熊ワタルによるヴァイル論も収録し、リバーシブル・カバー(装釘=宗利淳一)も楽しめる、充実の一冊。
 
 
この新訳は、単に移ろいやすい若衆コトバにおもねるものではない。例えばイギリスのアンダークラスが吐き出すスラングであるチャヴ語だ。ブレイディみかこが、ロンドンから南へ約七五キロ行ったブライトンの貧民街から筆者の住む東京新宿まで、九六四一キロをネットで超えて送ってくる「地べた」の言葉のことである。〔……〕ブレイディだけではない。栗原康があくことなく綴る奇妙な「ひらがな説法」。廣瀬純のとりわけ語りに現れる回し蹴りのような「逆説」の連発。左派といっても三人の論者たちは微妙に立場が違う。場合によっては相容れない。それでも一人一人の語りの戦略に、私は同じような壁を突破しようとする努力を感じる。大岡淳による新訳もそうしたものだ。
――平井玄(音楽批評)
 
今回の大岡訳の画期的なところは、〔ブレヒト=ヴァイルによる〕ソングの歌詞が限りなく生きた言葉として、そのままメロディーにはまるように考えられているところだ。意味が成り立つだけでなく、サウンドとしての聞こえ方まで原曲に近いのは凄い。これぞ「超訳」!
――大熊ワタル(ジンタらムータ)
 
 
著者:ベルトルト・ブレヒト
1898年、バイエルン王国アウクスブルクに生まれ、1956年、東ベルリンに没する。近現代ドイツを代表する劇作家、詩人。第一次世界大戦に従軍後、劇作家として活動。『夜打つ太鼓』(1922)でクライスト賞。1933年、ナチス政権樹立後はデンマーク、アメリカ合衆国などに亡命、1948年、プラハを経由して東ベルリンに帰国。
主な作品に、『マハゴニー』(1927)、『処置』(1930)、『第三帝国の恐怖と悲惨』(1937)、『肝っ玉お母とその子供たち』(1939)、『暦物語』(1949)など多数がある。
日本でも戯曲全集や書簡集など、その仕事のほとんどが刊行されている。

訳者:大岡 淳(おおおか・じゅん)
1970年、兵庫県に生まれる。演出家、劇作家、批評家。早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業。現在、SPAC‐静岡県舞台芸術センター文芸部スタッフ、静岡文化芸術大学非常勤講師、河合塾COSMO東京校非常勤講師を務める。
「日本軽佻派」を自認し、知的で愉快で挑発的なエンタテインメントを創造すべく、演劇、ミュージカル、コンサート、オペラ、ダンス、人形劇などを、幅広く手がける。
編著に、『21世紀のマダム・エドワルダ』(光文社、2015)がある。
http://ookajun.com