演出家・劇作家の野田秀樹氏が、今般の新型コロナウイルス感染拡大を受けて、「公演中止で本当に良いのか」と題した意見書を公表されている。短いので全文を以下に引用する。

 

コロナウィルス感染症対策による公演自粛の要請を受け、一演劇人として劇場公演の継続を望む意見表明をいたします。感染症の専門家と協議して考えられる対策を十全に施し、観客の理解を得ることを前提とした上で、予定される公演は実施されるべきと考えます。演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です。スポーツイベントのように無観客で成り立つわけではありません。ひとたび劇場を閉鎖した場合、再開が困難になるおそれがあり、それは「演劇の死」を意味しかねません。もちろん、感染症が撲滅されるべきであることには何の異議申し立てするつもりはありません。けれども劇場閉鎖の悪しき前例をつくってはなりません。現在、この困難な状況でも懸命に上演を目指している演劇人に対して、「身勝手な芸術家たち」という風評が出回ることを危惧します。公演収入で生計をたてる多くの舞台関係者にも思いをいたしてください。劇場公演の中止は、考えうる限りの手を尽くした上での、最後の最後の苦渋の決断であるべきです。「いかなる困難な時期であっても、劇場は継続されねばなりません。」使い古された言葉ではありますが、ゆえに、劇場の真髄をついた言葉かと思います。

 

既にネット上では炎上しているようなので、同業者である私がいまさらこれを腐すのもためらわれるが、賛同していると思われるのは癪なので、敢えて批判しておきたい。一読、これが業界の重鎮の発言なのかと目を疑った。まあ、あいちトリエンナーレにおける助成金不交付の一件もあったことだし、ウイルス禍という誰も反対できない名目を契機として、国家権力が劇場への統制・介入・干渉を強めるのではないか、という危機感が根底にあるだろうことは想像できる。それにしても、「ひとたび劇場を閉鎖した場合、再開が困難になるおそれがあり、それは『演劇の死』を意味しかねません。」とは、演劇業界人のエゴをむき出しにしているだけではないか。演劇業界人と、一部の演劇マニアはともかく、それら以外の人々にとって、「演劇の死」を回避せねばならない社会的な意義があるだろうか? そのような意義がありうるとして、それはわざわざ論ずるに値しない自明の前提であろうか??

「感染症の専門家と協議して考えられる対策」と言っても、できることはせいぜい、除菌清掃を徹底するとか、場内の換気を徹底するとか、アルコール消毒液を設置するとか、マスク着用をお願いするとか、その程度だろう。さらに、上演中もマスク着用、ロビーではほかの観客となるべく会話しない、楽屋訪問は2mの距離を保って……といったことまで実行すれば、なるほど感染リスクは低減されるだろうが、なんにせよ、劇場における人々の「社交」という重要な機能を犠牲にせねばならないだろう。そこまでして敢行すべき上演の意義とは何なのか? 要するに「チケット代よこせ」という話でしかないのではないか??

いや実際、野田秀樹氏は「チケット代よこせ」とはっきり言っているのである。「現在、この困難な状況でも懸命に上演を目指している演劇人に対して、『身勝手な芸術家たち』という風評が出回ることを危惧します。公演収入で生計をたてる多くの舞台関係者にも思いをいたしてください。」ここを読んで私は思わず吹き出した。「公演収入で生計をたてる多くの舞台関係者にも思いをいたして」などと、よく書けたものである。自分の都合で他人を巻き込むことを「身勝手」と言うのなら、これこそ「身勝手」そのものではないか!

私が彼のような地位にあって、どうしても上演敢行を擁護せねばならないとすれば、せめてこのような言い方にするだろう。「いかなる対策をとろうとも、たしかに劇場に観客を集めることは、観客にとっての感染リスクを高めることを意味します。しかし、そのリスクと引きかえにしてでも、我々は観客に対して与えたい感動があります。こちらも命がけなので、皆さんも、命がけで観に来て下さい。」

私は十代の頃、野田氏の演劇作品に傾倒した一時期を持つので、芸術家としての彼を尊敬するにやぶさかでないが、「多摩美術大学教授・東京芸術劇場芸術監督・朝日賞選考委員」(ウィキペディアより)という重責にある人物の社会的発言としては、これは全くいただけないと感じた次第である。

さて、世のブログならここで筆を置くだろう。だが、私が本当に言いたいのはこの先である。この意見書で、なにやら大仰に、その実、軽々しく用いられている、「演劇の死」というキーワードについてである。「ゲージュツ談義につきあう暇はない」という方は、ここで読むのをやめて下さい。
 
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「演劇の死」という言葉に、こんなところで不用意に出くわして、私はドキリとさせられた。なぜなら私は、「演劇の死」を前提として、自らの演劇人生を始めたという自覚があるからだ。ここでいう「演劇の死」とは、コロナ・ウイルスによってもたらされたものでも、国家権力によってもたらされたものでもなく、端的にはサミュエル・ベケットによって露呈された、20世紀演劇の本質である。すなわち、「演じるに値するものなど、もはやなにひとつ残っていない」という終焉的な感覚。あるいはさらに進めて、「演じるに値するものなど、最初からなにひとつ存在しなかった」という遡行的な認識。これこそが「演劇の死」である。ジョージ・スタイナーは、近代における「悲劇の死」を説いたが、ベケットの戯曲群が示しているのは、現代における「演劇の死」だ、というのが、20代の私が演劇に取り組むにあたって抱いていた基本的な前提である。あるいはこの「死」の感覚は、アルトー、ブレヒト、イヨネスコ、ピランデルロ……といった、20世紀演劇人たちに通底した感覚だったと言ってもいいだろう。

ほどなくして、アンジェイ・ワイダが記録した、タデウシュ・カントールの『死の教室』の映像に触れ、そして、今はなきセゾン美術館で開催されたカントール展に心奪われた私は、演劇とはそもそも「死の演劇」だったのかもしれない、というひらめきを得た。「死の演劇」とは、いいかえれば、“不在の現前”ということである。“不在の現前”とは何か。それを教えてくれたのは、例えば小林秀雄の「当麻」と題したエッセイである。

 

老尼が、くすんだ菫色の被風を着て、杖をつき、橋懸りに現れた。真っ白な御高祖頭巾の合い間から、灰色の眼鼻を少しばかり覗かせているのだが、それが、何かが化けた様な妙な印象を与え、僕は其処から眼を外らすことが出来なかった。僅かに能面の眼鼻が覗いているという風には見えず、例えば仔猫の屍骸めいたものが二つ三つ重なり合い、風呂敷包みの間から、覗いて見えるという風な感じを起させた。何故そんな聯想が浮んだのかわからなかった。

 

梅若万三郎の「当麻」を鑑賞した小林は、例えばこの「仔猫の屍骸めいたもの」を感じさせる仮面に「人間の生死に関する思想」が宿っていることを直感し、その一方で客席に目を転じて「どれもこれも何んという不安定な退屈な表情だろう」と呆れ、「仮面を脱げ、素面を見よ」と喚いてやまない「近代文明」を批判するに至るのである。思わせぶりに隠された、いきいきとした素面ではなく、何の衒いもなく露となっている、「仔猫の屍骸」のような仮面にこそ、「生死」が感じられるということ。死という不在が、物のかたちをまとって投げ出され、あからさまに現前しているということ。この逆説的様態を仮に“不在の現前”と呼ぶなら、演劇とはまさに“不在を現前させる”メディウムであり、マテリアなのではあるまいか。カントールの『死の教室』に登場する人形たちを見ていて抱いたのも、これと同様の感覚ではあった。

とすれば、「演劇の死」を恐れることはあるまい。なぜなら、そもそも演劇にとって「死」は、その中核に据えられたものなのだから。それどころか、「演劇の死」という形態は、「死の演劇」という内実と、不即不離の関係にあるのかもしれない。あるはずのものが消えうせる、過酷な現実があればこそ、ないはずのものをあらしめる、パラドックスが生起するのかもしれない。このように“現前の不在”と“不在の現前”を往還するタイトロープを、あるいは先人は「虚実皮膜」と形容したのかもしれない。先の小林秀雄のエッセイは、こう結ばれている――「僕は、星を見たり雪を見たりして夜道を歩いた。ああ、去年の雪何処に在りや。いや、いや、そんなところに落ちこんではいけない。僕は、再び星を眺め、雪を眺めた。」なるほど、「不在の現前」を覗き見た小林も、一瞬の後には、「現前の不在」に直面することになったわけである。

かくして、「いざダンス・マカーブルを踊らん!」という覚悟が、私の演劇人生の出発点となったのである(余談だが、映画『ジョーカー』の主人公アーサーのダンスこそ、現代のダンス・マカーブルではあろう)。そんな私から見れば、たかだか興行が成り立たなくなる程度のことを指して「演劇の死」などと軽々しく口にすること自体、笑止である。

アナキストの千坂恭二氏が、facebookでこう投稿しておられた。「『無観客◎◎』ということだが、シュテファン・ツヴァイクによれば、ニーチェの生涯とは本質的に無観客の一人芝居のようなものだったらしい。」孤高の作家ツヴァイクにふさわしい名言であるが、改めて考えてみると、無観客上演という形態は、決して珍しいものではない。例えば秘密結社や宗教結社の「秘儀」の類は、当人たちは神なり何なりに見せているつもりであろうけれど、客観的には無観客でパフォーマンスを演じているのと同じだ。アナトール・フランスが美しく描いた「聖母の軽業師」とて、傍目には単なる狂人と見えたかもしれない。私自身、静岡市浅間神社の舞殿で芝居を「奉納」した経験を持つが、あの聖なる空間において、観客の存在は全く副次的でしかない。いわば観客は、神様のおこぼれにあずかるように、舞殿を横から覗き込むことを許されるのである。さらに現代演劇においても、イェジー・グロトフスキは晩年、限定されたメンバーと非公開=無観客の「儀式」を繰り返す“グル”と化していた。既にそのような例も存在するのだ。

「死の演劇」もまた、眼前にどれほど観客が存在しようとも、その上演形態は本質的には、「演劇の死」と呼ぶにふさわしい、無観客上演なのかもしれない。ただしこの上演は、神にではなく――“不在の現前”が“現前の不在”に回帰するように――「死」や「無」や「空」に向けて奉納される。あるいは、こう考えてはどうだろう? ダンス・マカーブルに観客は存在しなかった。なぜならそこでは誰もがペストの脅威にさらされ、高みの見物ができる場所などどこにも存在しなかったからだ(もしもそこに、神という共同幻想を措定しない限りは)。従って、かろうじてこのダンスに観客がいたとすれば、それはただひとつ、人間たちを囲繞するペストであっただろう。同様に、「演劇の死」にさらされる「死の演劇」に観客がいるとすれば、現時点においてそれはただひとつ、コロナ・ウイルスである。結構だ。いざダンス・マカーブルを踊らん!