先日、映画監督・是枝裕和に見られる、「早稲田大学的ポーズだけ反権力主義」を批判したところですが、さっそく早稲田大学で問題が噴出しています。文芸批評家にして早大教授・渡部直己による、女子大生に対するセクハラ疑惑が持ち上がりました。本人が認めていますから、疑惑というより、もはやセクハラ事案ですね。早大の対応もひどいもので、告発者によれば「フェミニズムやジェンダー論を教えている大学という教育現場で、ハラスメントが起こっていること、そしてハラスメント防止の組織が実際には機能していないということに絶望しました」とのこと。前回のブログで、是枝裕和に象徴される「早稲田的なもの」を定義して「現実には学歴社会・企業社会でおいしいポジションを獲得しているくせに、口先だけで反権力を気取り、しかもその自己矛盾に無自覚な態度」としましたが、「自己矛盾に無自覚」なのは卒業生のみならず大学自体の体質でもあるようです。

さて、御当人は言い訳として「私はつい、その才能を感じると、目の前にいるのが学生であること忘れてしまう」と発言しています。「教師としては不適格かもしれないが」とも。この発言をそのまま受け取るなら、これこそ仲正昌樹が『不自由論』(ちくま新書)で批判した、左翼の病そのものですな。つまり、建前よりも本音、形式よりも内実、理性よりも心情を重視し、「善意=同情心=人間性」を共有しない(と見える)者を「人間」ならざる存在とみなして、抹殺することを厭わない。これがロベスピエール以来の左翼の本質だと仲正氏は喝破しています。なるほど、〈教員―学生〉という役割関係を「欺瞞」としか捉えられない本音むき出し主義は、「善意」という名の暴力(=ハラスメント)ですな。で、御当人としては「善意」のカタマリに過ぎない恋愛感情が拒絶されたら、一転して相手の「人間性」を疑い、逆ギレに及んだということですね。

「俺の女になれ」が、くだんの女子学生に対する口説き文句だったそうで(御当人は一応否定してますが)、蓮實重彦を模倣して、さんざん小説における「紋切型」を罵倒してきた文芸批評家(模倣である時点で「紋切型」を批判する資格が本当にあるのかという問題はさておき)とは思えない「紋切型」ではありまして、このような昭和の共同幻想(笑)がなお生き残っていることには驚嘆を禁じえませんけれども、今日このようなセリフが通用するのはせいぜい場末のスナックのみでありましょう。スナックなら「有料昭和ごっこサービス」を快く提供してくれるわけでありまして、「俺の女になれ」に対して、ママさんは内心ウンザリしつつも顔は笑って、酒焼けした声で「ちょっと、本気にするわよ」と返してくれるはずであります。まさしく「紋切型」の応酬でありますが、そんなひとときに癒やされるおじさんを否定するほど、世間は冷たくはないのであります。

しかしこの文芸批評家は、これは私の推測に過ぎませんが、おそらく場末のスナックで、ビールとサントリーオールドの水割りと柿ピーとママさんの手作りピクルスを注文してお喋りしてカラオケ2曲(小椋佳『さらば青春』と河島英五『時代おくれ』で間違いなし、他の客と被ったら梅沢富美男『夢芝居』も可)歌って5,500円くらい払って帰宅する、という趣味は持たなかったのでありましょう。そのような虚実ないまぜの社交術と言いましょうか、ひとときカウンターを挟んで繰り広げられる「演劇的」な会話の妙に、この御仁が興味を持ったとは到底思えません。だって「欺瞞」にしか見えなかったでしょうから。「私はつい、その色気を感じると、目の前にいるのがママさんであること忘れてしまう」わけですから。「なぜ君は5,500円なんてカネを要求するんだ! 不純だ! さっきの言葉は嘘か! 帰る!!」って、それはただの無銭飲食であります。

つまりこの人は、あたりさわりなく天候の話をするとか、年賀状を出すとか、お中元やお歳暮を送るとか、内容がなんであれ形式が踏襲されていればよしとされる、社交術の一切合財を「虚礼」と見ていたのでしょう。ママさんやホステスさんや隣に座った常連たちとの虚々実々の会話ゲームなど、そのような「虚礼」の典型と見えていたでしょう。そして、空疎な「虚礼」の反復が「紋切型」を蔓延させる元凶だとでも考えていたのでしょう。ではそのような「紋切型」を突き破るものは何かといえば、つまり「俺の情熱」なのでありましょう。この人は何かといえば「小説の小説たるゆえんは物語ではなく描写にある」と主張していて、どうもその意味が私はよく飲み込めなかったんですが、今にしてようやく理解できました。物語を破綻させかねないクソ長い描写を読みながら、そこにこの人は「作家のむき出しの情熱」を見ていたってことなんでしょう。

渡部センセイ。あのね、それは「自然主義」というヤツですよ。ウィキペディアのセンセイの記述に「まるで田山花袋の『蒲団』を地で行くような話」って落書きされたでしょう、あれ私は、存外正鵠を射ていると思いましたよ。つまりは、あなたが愛した(?)夏目漱石や森鷗外が、忌み嫌ったものですよ。それこそが実は、日本近代文学における「紋切型」の最たるものであり、左翼の暴力性に直結しているのですよ。金八先生の体当たり主義そのものですよ。そしてあなた自身の学生に対するセクハラが、それを証明したということですよ。いっぽう人々は、ありふれた役割行為を演じ、「紋切型」に過ぎない空疎な言葉のキャッチボールを繰り返していると見えますが、よくよく耳を傾けてごらんなさい、すると、言葉は常に虚と実のあわいを揺れ動き、ひとつとして同一のニュアンスはないということに気づきますよ。当たり前じゃないですか、人の数だけ人生があるんだから。そうやって人間は生きてきたんだし、これからもそうやって生きていくんで、そのことを冷笑する資格など誰にもないのですよ。

あなたもそんな当たり前の人生を楽しむことができれば、誰もがそうしているように己の欲望をコントロールする術を会得できたかもしれず、そうすれば若い女性を傷つけることもなかったかもしれないね。しかし、もう遅い。あなたもまた若き日に左翼という病に取り憑かれ、無反省のまま生きてきたひとりだったというわけだ。