演劇崇拝◎自動焦点の第12回演劇宣言「私たちは何をしているのか分からないが何かをしている。」を観に、麻布die pratzeへ。作・演出は佐々木治己(ささき・かつみ)。

舞台上には、ノスタルジックなムードを漂わせる空間。空間の外縁部には、ひとりずつバラバラで、椅子に腰掛ける俳優たち。その中のひとりが、おもむろに小さな机の上に置かれたカセットデッキのスイッチを入れ、そこから流れる音声に耳を傾ける。延々と続く、録音されたモノローグ。このモノローグが終わると、俳優たちはひとりひとり立ち上がり、空間の中央にある「部屋」とおぼしき場所に集まり、ベッドに横たわる死体(とおぼしき女性)の傍らで、喪の儀式をおこなう。この簡単な儀式が終わると、また俳優たちはバラバラに四隅に散る。さきほどとは別の俳優が、またしてもおもむろに、手元のカセットデッキのスイッチを入れ、耳を傾ける。終わると、また、喪の儀式。ひたすらこの繰り返しである。最後には、ベッドに横たわっていた死に装束(白いドレス)の女性が幽霊のごとく立ち上がり、ゆらゆらと揺れながら、やはりモノローグに反応しているかのような姿が示される。

上演時間、なんと2時間30分。このうち、俳優が体を動かすのは全部合わせても30分程度で、それ以外のおよそ2時間は、ただただ録音されたモノローグに聞き耳を立てるしかない時間である。否、正確には観客は、俳優と共にモノローグを聴き、また同時に、そのモノローグを聞いている俳優の姿を観るのである。これがなんとも不思議な体験であった。長尺のモノローグを聴いている俳優たちは、時折、演技とは思えない苦痛そうな様子を見せ、またモノローグの声の主も「おい、聴いているのか?寝てるんじゃないのか?」などと語りかけてくる。このため観客である私は、意識が朦朧として眠気が襲ってくる度に、モノローグを聴かされている舞台上の俳優が、まるで、劇場の椅子に座っている自分自身であるかのような錯覚に襲われ、どきりとさせられた。おかげで、ちっとも安眠はできない(もちろん、芝居は安眠するためのものではないのだが:笑)。フーコーによるベラスケス「女官たち」の分析ではないが、あたかも、主体と客体の合わせ鏡の迷路にさまよいこんだような感覚だ。しかしよく考えてみれば、そもそも芝居を観るという行為それ自体が、わざわざ暗闇の中で肩を寄せ合い、動くことも喋ることも許されぬまま、息をひそめて2時間以上、眼前に展開する他人の行為をただ眺めるだけという、極めて受動的で、マゾヒスティックで、うしろぐらい行為ではあるのだ(演技の本質がエロスの発露だとすれば、観劇の本質は覗き見趣味であると、寺山修司風に言ってみたくもなる)。その行為の間、私たち観客は、私たち自身が限りなく「観るだけ・聴くだけ」の、空虚な存在であるつもりになっている。だが、「観るだけ・聴くだけ」も確かに一つの行為であり、ぽかーんと口をあけて舞台を見つめたり、あるいは、ウトウトして首を振ったりしているその様子は、自分では最も見たくないものの一つではあろう。だがこの芝居は、まさにその見たくない私たち自身の姿を、舞台上にさらすような芝居なのだ。「私たちは何をしているのか分からないが何かをしている。」まさに、観劇とはそういう行為ではないのか。そして、世人は芝居について語るとき「何をしているのか」についてかまびすしく議論するが、この芝居は、その「何」は括弧に入れたまま、とにかく「何かをしている」ことを本質的に問い返し、照らし出すのである。あたかもハイデガーが、頽落した世人は存在者を問うが、現存在(=頽落していない人間)は存在そのものを問うとしたように。

そして、繰り返される喪の儀式は、「何をしているのか」ばかりを騒々しく議論してきた演劇という表現ジャンルが、めでたくも無駄口をたたくのをやめ、墓場に入ったことを象徴しているかのようである。まるで、演劇は墓場に入ることでようやく「何かをしている」ことになる、とでも言いたいようだ。実際この芝居は、通人の観客にしてみれば、演劇史的な記憶を喚起せずにはおれない作りになっていた。俳優がテープに録音された声に耳を傾けるところから、ベケットの『クラップの最後のテープ』を想起しても良いし、口を開かず喪の儀式に参集するところから、カントールの『死の教室』を想起しても良いだろう。延々と続くモノローグの内容から、ベルナール=マリ・コルテスの『綿畑の孤独の中で』を連想することもできるし、最後にむくりと女性の死者が起き上がるところで、ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』を連想した人もいるかもしれない。この他にも、イヨネスコやら、アルトーやら、直接明示されるわけではないが、まるで影のように、亡霊のように、演劇史的な形象が作品の背後にちらつくのである。

実に深みのある観劇体験となった2時間30分であった。聞くところによれば、この芝居をあろうことか「退屈」と非難して足れりとしてしまった演劇批評家もいたようだが、これを「退屈」と呼ぶほど「退屈」な批評もそうないだろう。若気の至りで為される前衛劇とは異なり、この芝居には、「退屈」だとか「難解」だとかいう常套的な罵倒語を封殺する強さがある。それは何より、演出家・劇作家の意図するところを十分に汲んで、凄まじい集中力を発揮して舞台に上がっている俳優たちから、確かに「何をしているのか分からないが何かをしている」ことが伝わってくるからだ。佐々木治己は若い世代の演出家だが、最近名が売れてきた30代の演出家たちより、はるかに優秀な逸材である。彼は、若くして既に、演劇の何たるかを知り尽くしてしまっている。それこそ、軽々しく「退屈」を口にするような演劇批評家(この手の人種は「面白い」刺激を求めて、餓鬼の如く日々劇場を放浪しているのだ、読者よ、連中の醜い姿をこそ嘲笑せよ!)と違って、もう全てが演じられ語られ尽くしてしまったという、根本的な「退屈」を知ってしまっている。だが、ツァラトゥストラが山から下りてきたように、それでもわざわざ、その演劇というジャンルに自ら携わっているのである。佐々木氏のその姿勢に、私は、共感を覚えずにはいられない。