西部邁の自殺をめぐって、友人知人がSNS上で色々発言していて、左派リベラル派からの批判的なコメントが多いのだけれども、しかし批判と言ってもこれだけバリエーションがあるのだから、やっぱりそれなりに影響力を持った知識人だったんだなあと改めて感じ入った。
たぶん読者としては、1970年前後に生まれた私くらいの世代が、いちばん影響を受けているんじゃないだろうか。私が最初に読んだのは『大衆への反逆』だったと思う。オノレ・ドーミエが描いたドン・キホーテが表紙に掲げられていて、印象深かった。1983年に刊行されたらしい。この頃は、まだこういう本の作り方ができたのだ。
ドーミエは、老いと視力の低下に悩まされるようになってから、ドン・キホーテというモチーフに出会ったとのこと。西部が選んだ一枚は、サンチョ・パンサが省かれた、孤独なドン・キホーテの姿である。表情が描かれていないためか、陽光のもとに死の影がさらされているような不気味さがあって、今回の一件から顧みると、なんとも示唆的に思えてしまう。この絵画に興味がある方はこちらを。
私は中学生の頃にニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』が愛読書で、激烈な大衆憎悪を抱いていたから、現代日本社会への応用編として西部の著作には親しんだのだけれど、ただその大衆批判の根拠として持ち出されるのが「伝統」とか「コモンセンス」とかで、でもそれは実態としては、たかだか明治維新以降の国民国家を正統視しているに過ぎないという矛盾には、ほどなく気がついた。それに、彼がたびたび持ち出す「精神の平衡」というのも単なるレトリックで、そんなことを言えば何に対しても「○○はいささか平衡を欠く」と批判できてしまうことにも、ほどなく気がついた。
つまり西部邁という人は、ロジシャンと見せかけたレトリシャンなのである。『朝まで生テレビ』における彼の弁舌はいつも胸のすくものだったが、それもまた元アジテーターならではの、レトリシャンとしてのテクニックによるものであった。中沢新一人事問題をきっかけにアカデミズムから飛び出したのは、東大のセンセイたちがロジシャンを偽装する権力亡者に過ぎないことを問題視したからだろうが、それは自分もまた決してロジシャンではないからこそ、同僚たちのインチキが許せなかったということだろう。「汝らのうち罪なき者まず石を投げうて」という心境だったのではないだろうか。その後、在野の書き手に徹したのは天晴れお見事で、それこそレトリシャンの面目躍如ではあった。
おそらく、戦後民主主義なり大衆民主主義なりへの懐疑というのは、かつて彼が属していた、大衆を指導する「前衛」たるブント(共産主義者同盟)の中でテーマとなっていたことなのだろう。ブルジョア民主主義(=政治的解放)を克服するのは革命(=人間的解放)だ、という路線が(彼の認識としては)失効した後に、では民主主義に何を対置するかを吟味し、見出されたのが「保守」思想だったのだろう。そう考えると、この人は確かに転向してはいるものの、思想的なテーマ自体は新左翼学生の頃から一貫していたとも言えるだろう。
ところで江藤淳は『保守とは何か』の中で、「保守とはエスタブリッシュメントの思想である」と、臆面もなく言い切っている。おいおい言っちゃったよこの人、と、私などは仰天したものだが、海軍閥エリートの江藤淳としては、これがネタでも何でもなく偽らざる本心だったのだと思う。一方、北海道から上京した苦学生だった西部邁は、生涯こんな台詞を吐くことはできなかった。せいぜい天皇を「フィクションとして」奉ずることしかできなかった。その意味では、この人もまた、三島由紀夫の呪縛から逃れ得なかったと解釈することができるかもしれない。つまり、天皇を奉じながら、文字通りの神として崇められない空隙は、自殺によって埋めるしかなかったのかもしれない。とすると、今上陛下の生前退位を目前として西部の自殺が決行されたことに、何かしら意味を認めてもいいのかもしれない。例えば、「保守」すべき皇室が自ら「伝統」をアップデートするに至って、彼の立脚点である「伝統」はついに現実との最後の接点を失った、というような具合に。ともあれ、森鷗外ならば終生「かのように」で済ませることができたのだろうが、それはまさしく近代日本が「普請中」だったからで、三島にせよ西部にせよ、焼け跡という終焉の後を生きる世代は、「かのように」で誤魔化し続けることはできなかったのだろう。
ただし三島由紀夫とは異なり、彼は切腹を選ばず、多摩川に身を投げた。これは、三島由紀夫ではなく、三島のライバルであった太宰治の死を連想させる。太宰は、弾圧によって転向を強いられた元左翼である。とすると西部邁の生涯もまた、つまるところは太宰が描き続けたような転向者の自嘲と共にあり、その自嘲から彼をかろうじて救っていたのが「保守」思想だったということなのかもしれない。しかしこの「保守」思想とはすなわち何かを信じるふりをすることでしかなく、知的で鋭利なレトリックによって粉飾されてはいたものの、中核に据えられていたのは空無であった。そして空無はついに彼を捉えた。
その結果彼は、三島由紀夫のような大仰な自殺よりも、太宰治のような滑稽な自殺を選択することになった。ただし、太宰治の玉川上水への身投げは心中だったが、西部邁の多摩川への身投げはただひとりで為された。あたかも、サンチョ・パンサを伴わないドン・キホーテのように。
追記(2018年1月23日)
経済学者としての西部邁は、市場原理の限界を克服するために「倫理」が不可欠であることに気づいていた。これは、経済学の開祖アダム・スミスが決して市場原理万能主義者ではなく、経済学者であると同時に倫理学者であったことに由来していると解釈してもよいだろう。ただその「倫理」領域へと飛躍を遂げる際に、彼が選んだのは決して「倫理学」ではなく、レトリカルな発言と著述であり、もっとわかりやすく言えば、名著『六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー』が典型であるように、「文学」だったと言ってよいだろう。そう考えると、ここで太宰治を連想したことは、決して唐突ではないように思えてきた。そして三島由紀夫は逆に、「文学」からその外部へ飛躍しようとあがいたのだと思える。
ついでにもうひとつ。江藤淳は風呂で自殺し、西部邁は川で自殺した。両者とも「水」を死に場所に選んだのは、日本ナショナリズムの根底に母胎回帰願望があることを示唆している。両者とも妻の死に続く自殺である点がこれを裏付けている。しかしそれこそ伝統的には、羊水のアレゴリーとして持ち出されるのは海である。江藤にとっての風呂は、いかにもミニチュアの海という感じがするが、ここで川が選ばれている点に私は仰天した。あたかも、母なる海に回帰するかと見えて、「まあいいやここで」と無造作に身を投げたかのようである。上記本文で、この点を私は「滑稽」と形容したつもりである。江藤淳を「正統」の保守主義者とするなら、西部はその死においてもやはり「正統」からは逸脱していた。私が多摩川から連想するのは、つげ義春『無能の人』である。西部はつげ義春を読んでいただろうか。最後に彼を捉えた空無は、河原の石ころの姿をしていただろうか。
追記(2018年4月21日)
報道により、西部の自殺には2名の幇助者がいたことが判明している。従って、このエントリーの最終段落は、やはり西部の自殺は太宰の心中を想起させる滑稽な死であり、このドン・キホーテは終生サンチョ・パンサを必要とした、と書き換えるほかなくなった。つまり、私が太宰を連想した直感はやはり正しかったということになるが、その意外性のなさには、なにやら虚しさを感じざるを得ない。