江戸糸あやつり人形座公演・ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ 君と俺との唯物論』、無事終了しました。おかげさまで連日大入りとなりました。ご来場いただきました皆様、また、ご協力いただきました皆様に、改めて御礼申し上げます。日本美学研究所さんには、丁寧な劇評を書いていただきましたので、御一読下さい。さて、公演を終えて少し時間も経ち、自分なりに、バタイユの短編小説『マダム・エドワルダ』を客観的に捉える余裕も生まれたと思いますので、ここでいったん総括しておこうと思います。
 
 副島隆彦『隠されたヨーロッパの血の歴史』(KKベストセラーズ)が、ローマ・カトリックこそ人類における最大の悪の集団であり(原罪思想こそがその中核である)、これに抵抗したのが、15世紀フィレンツェの知識人たちによる反キリスト=ネオ・プラトニズム運動であるルネサンスだった、と、我々のルネサンス観(なにやら文芸や美術の新しいモードであった、というような)を一新する歴史観を披瀝している。そして、19世紀においてやはりローマ・カトリックに思想的徹底抗戦を挑んだのがニーチェであった。ミケランジェロも、ニーチェも、このキリスト教批判というモチーフを抜きにして語ったところで何の意味もない――と、副島氏は強調している。
 
 それでいくと、ジョルジュ・バタイユは、やはりニーチェの継承者であろう。キリスト教に代わりうるものとして、ニーチェが「ツァラトゥストラ」を持ち出したように、バタイユは人類史を遡行して「聖性」をつかみだした。ところで、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が「現代社会にイエスが現れたら?」をテーマとしていたとすれば、『罪と罰』は、「現代社会にマグダラのマリアが現れたら?」をテーマとしていたと言えるかもしれない。そして、バタイユの『マダム・エドワルダ』は、この『罪と罰』のテーマを、20世紀において再び展開したものだと私は解釈したい。実際、熱に浮かされたラスコーリニコフがペテルブルクを彷徨する様と、酒に酔った「私」がパリを彷徨する様は、よく似ている。そして彼らは、大都会の掃き溜めで娼婦に出会い、ラスコーリニコフは純粋さを失わないその娼婦によって魂の救済を得るが、「私」は狂った娼婦を「神」だと感じつつも、最後には深甚な「無意味」へと叩き落される。ヘーゲル的な弁証法=予定調和は、20世紀においてはもはや機能しない。
 
 思えば、ニーチェもバタイユも、日本ではそこそこ人気があり、それこそニューアカデミズムの80年代には両者ともよく読まれていた。が、果たして「現代思想」を享受した日本の読書人・知識人たちが、ニーチェやバタイユの「反キリスト」というモチーフをどこまで実感できていたか、体得できていたかは疑問である。学生時代、松原正先生の講義を受けていたが、最も感銘を受けたのは、次の発言だった。「ベケットの『ゴドーを待ちながら』について、日本では誰もが『ゴドーとはゴッドのことだ』としたり顔で言うが、そのたびに聞き返したくなる、『あんたの言う神様ってのはどの神様だ?』と。」副島隆彦氏が言っているのもこれと同じことだろう。そもそもキリスト教とは何なのか、という問いを抜きにして、西洋の文学や思想について云々することにどれほどの意味があるか。思えば、そのような日本知識人にありがちな、最奥のコアを見ないままの、倫理的煩悶を伴わない表面的な西洋理解は、遠藤周作が批判してやまなかった態度でもあった。ニーチェの近代批判すら、日本では安易な自己肯定に転じてしまうと難じたのは、丸山真男だったか。
 
 ただ、急いで補足しなければならないが、だからといって、キリスト教についての知識・教養をじゅうぶんに蓄える必要がある、と言いたいわけではない。なにしろ、じゅうぶんな知識・教養の持ち主ですら、勘所をつかまえ損なうということもありうるのだから。その代表例は、三島由紀夫であろう。三島は「小説とは何か」と題したエッセイで、『マダム・エドワルダ』を小説として高く評価しつつ、こう言っている。
 

ただ明らかなことは、バタイユが、エロティシズム体験にひそむ聖性を、言語によっては到達不可能なものと知りつつ、(これは又、言語による再体験の不可能にも関わるが)、しかも言語によって表現していることである。それは「神」という沈黙の言語化であり、小説家の最大の野望がそこにしかないのも確かなことである。そして小説に出現する神として、女が選ばれたのは、精神と肉体の女における根源的一致のためであり、女のもっとも高い徳性と考えられる母性も、もっとも汚れたものと考えられる娼婦性も、正に同じ肉体の場所から発しているという認識に依るのであろう。

 
 ある意味では、全く正しい理解である。しかし同時に、何かが根本的に欠落しているという印象を私は持つ。つまり、そのバタイユが執着した「神」とは、キリスト教が想定する、あの唯一絶対の神を指しているのか、それとも、その唯一絶対の神すら包括してしまう(ということはすなわち、唯一性・絶対性を認めない、という意味なのだが)神性一般・聖性一般を指しているのか。そこは、大きな問題ではないか。三島の説明は、その落差を最初から覆い隠し、なにやら漠然とした「神」の一語によって誤魔化してしまっている。
 
 だが、バタイユにとって、その落差はもちろん無視できるものではなかった。自らの意志でカトリック信仰を選択した若き日のバタイユは、「ランスの大聖堂」と題した短文で、十字軍的な熱情を吐露した。そしてこの信仰を棄却し、普遍的な聖性に到達したとき、思想家バタイユが誕生したのである。『マダム・エドワルダ』のバタイユは、もはやキリスト教の「神」を信仰してはいない。だからこそ、「神」という概念を介してしか聖性に触れられない「私」を、小説という枠の中で、突き放した筆致で描いたのだろう。だいいち、娼婦が「神」を名乗るのも、「私」がそれを真に受けるのも、キリスト教徒からすればとんでもない冒涜だろう――なにしろ「神」は「父」と呼ばれてきたのだし、それが人間の姿をまとって降臨したのは、ただ一度きりの出来事のはずだから(だから、「小説に出現する神として、女が選ばれたのは、精神と肉体の女における根源的一致のため」とは、まさにその通りなのだろうが、それにしてもなんという言葉の軽さであることか!)。だが、キリスト教の理念に囚われず、聖性一般が女性の身に瞬間的に顕現したのだと考えれば、とたんにこれは、驚くべきことでも何でもなくなる――私たち日本人にとっても「巫女」は珍しくも何ともないように。「私」に訪れるこの認識の転換が、『マダム・エドワルダ』の最大の要点なのだと私は思う。とするとこの小説はやはり、『罪と罰』のパロディなのかもしれない。本家の如き救済が挫折してしまうパロディによって、逆説的ではあるが、「神」ならぬ聖性を顕現させることが目論まれたのかもしれない。
 
 三島由紀夫が最も共感した人物がジョルジュ・バタイユだったそうである。しかしそれにしては、三島の『マダム・エドワルダ』解釈は、あまりに素朴に、キリスト教の「神」と聖性一般とをいっしょくたにしている。おそらく、三島はバタイユと違って、はじめから、超越性、至高性、聖性という審級を設定していたのだ。そして三島にとっての「天皇」は、その審級に代入されるひとつのサンプルでしかなく、それ故に、絶対的な信仰の対象ではありえなかった。別に「天皇」でも「神」でも構わなかったのだ。にもかかわらず、その「天皇」を聖化させるためにあえて自ら死を選ぶという倒錯を、三島は選択した。心底では信じてはいないものを、信じているかのようにふるまうというアイロニーの極限。一方バタイユは、「神」への信仰から出発しながら、それを棄却し、人類普遍の宗教性へと至った。その宗教性を証立てるために自らを、文字通りの生贄にしようともした。生死の境を超える実践に身を投じようとした点はなるほど三島と共通しているが、ただしバタイユにアイロニーは感じられない。バタイユの軌跡には恣意的な選択が入り込む隙がない。バタイユの普遍性は、ニーチェから継続するキリスト教との苛烈な思想戦や、安易に「神」の代用品を持ち出したファシズムとの思想戦の結果、つかまれたものだからだろう。それを、「神」なき時代における神探し、とひとことで要約することは可能である。だが重要なのは、その要約から零れ落ちてしまう苛烈さである。
 
 最後にひとつ告白しておくと、幼少期の私は、幼いなりに真剣に、イエス・キリストを信仰していた。だからこそ、遠藤周作には共感するし、松原正氏や副島隆彦氏のいわんとするところも、自分なりに実感できているつもりはある。対するに、三島由紀夫や澁澤龍彦が、あまりに軽々しく「背徳」だの「侵犯」だのを口にすることには、抵抗を感じてきた。それらはいったい、何に対する「背徳」であり「侵犯」なのか。精神分析学的に言えば、近代の日本知識人にとって〈超自我〉として君臨しえた思想的原理は、第一にキリスト教、第二にマルクス主義であったが、冷戦終結以降、この〈超自我〉は空白となっている。その結果、キリスト教やマルクス主義に由来する倫理的煩悶を実感しない人々が、ニーチェだのバタイユだのベケットだのについて、好きなだけお喋りをあふれさせるのが、「現代思想」シーンの慣わしとなってしまった。三島や澁澤は、この意味での「現代思想」の先駆ではないのか(詳述は控えるが、三島なら〈意識〉の劇、澁澤なら〈エス〉の遊戯を、〈超自我〉の空隙を埋めるために演じ続けたのだと思える)。しかし、ニーチェもバタイユもベケットも、わからないならわからないで構わないではないか、なぜ誰も彼もが“わかったふり”をせずにはいられないのか。私には、むしろそのことが問題だと思える。