大検予備校「受験現代文」前期最終回。昨晩はSANDのビデオ編集の準備作業を麻布十番のオフィスでやらせてもらって、帰宅してから大学の試験問題の作成、日本演出者協会の雑務(カネにならないがただ義務感だけでやっている仕事なのでこれが一番しんどい)、そして授業の準備と続き、結局一睡もできぬままに予備校へ。

最終講は市川浩の文章。今日の授業は、これまで受験産業に関わってきた中でも、最もよくできた授業だったのではないだろうか。まずはマニラの夏とバンコクの夏を比較する雑談から入り、次に「指示語問題への対応」というテクニックを伝授して実際に問題を解かせる。問題を解かせている間に、本文中に登場する「逆説」という言葉の説明を挿入。皆が問題を解き終わったら再び解説に戻って、まずは「逆説」と「矛盾」の違いを詳しく説明。さらに、本文中に登場する「分節化」について、言語学的な観点から説明。西江雅之の紹介している事例(虹の色を何色と認識するかは、民族や部族によって異なる)と、丸山圭三郎の想定している事例(同じ山の動物を、ある村では「犬」「狼」、別の村では「犬」「山犬」「狼」と呼ぶことがありうる)を引用した。という具合に、頭の準備体操をしたところでプリントを配布し、「指示語」をマークする作業を点検しつつ、設問の解答と解説。今日は設問の数が少なかったので、これも比較的丁寧に解説することができた。途中、設問に「不条理」という言葉の意味を問うものがあったので脱線し、「不条理演劇」の代表作としてサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」を紹介し、さらに、「不条理」といっても決して抽象的なテーマではない、というのも、この作品のモチーフとなっているのはナチス=ドイツ占領下のフランスの農村の風景ではないかと思われるからだ、そしてそういう「ゴドー」の暗黙裡の政治性は現代にも生きているはずだ、スーザン・ソンタグは戦火のサラエヴォに出かけて「ゴドー」を上演したそうだが、終わりの見えない戦争に巻き込まれた人々の目に映る「ゴドー」は、ベケット自身のモチーフに最も近いものではなかったか、と畳み掛けた。こういう難しい話も、ようやく差し挟むことができるようになってきた……かな(生徒諸君と呼吸が合わない限り、こういう話はなかなか成立させられないので、ふだんは控えるようにしている)。

講義は気分よく終えたのだが、毎週、この講義の後は3時間ぶっ通しで小論文の個別指導をやらねばならず、こちらは本当に気力と体力を要求される。個別指導だから、単なる文章指導にとどまらず相手の実存にまで踏み込まざるをえないところがあり、こちらも疲れるのである。また、各自の志望大学は当然ながらまちまちで、個別の学問分野にまで踏み込んだ内容が出題されているので、こちらもあらゆるジャンルに対応せねばならない。今日も「介護保険」やら「グーテンベルク印刷術の発明」やら「戦後の日本経済」やら「明治以降の日本近代史」やら、乏しい知識と教養を総動員せねばならなかった。って、俺は「うんちく王」か! この小論文という科目、各予備校は本当にまともな対応をしているのだろうか。これだけ内容がまちまちだと、よほどのインテリでなければまとめて対応することは不可能だろう。私は乱読が趣味だから、今のところなんとかなっているが。

終わってから、同じく現代文担当の大先輩であるA先生と、教務のSさんと飲みに行って、簡単な打ち上げ。「予備校講師というのは、優れたパフォーマーであるのは当たり前で、同時に、優れたディレクターでありプロデューサーであるべきなんだ」とSさん。いちおう俳優も演出も制作も経験している私としては、このひとことで悟るところがあった。Sさんからは毎回色々なことを教わっている。それにしても、長い1日であった。