昨日はシアターXで、ブレヒトソング・コンサート「あとから生れるひとびとに -声の漬物・II・Brecht-」の打ち合わせ。このコンサートは、「詩の通路」というゼミの、プロデュース公演第1弾として上演される。詳細はこちら。
http://www.theaterx.jp/poetry/index.shtml
ブレヒトだから、てっきりブレヒト演劇祭と絡んでいるのかと思っていたがそうではなく、ブレヒト演劇祭は2年続けてやったからもうおしまいということらしい。代わって、シアターXの今年の自主事業はこの「詩の通路」シリーズだそうである。私もちょくちょく覗いてみるつもりである。皆さんお楽しみに。
ところで、シアターXのブレヒト演劇祭って結局どうだったんだろう? フェスティバルってのは、総括して批評してくれる人がいないと、なかなか全体像が見えてこないですな。演劇人会議やSPACの企画ならば、菅孝行氏や私が「地獄の全公演批評」を書いてヘトヘトになったりしているわけだけど、それに近いことを書いてる人っているんだろうか。いたら、どなたか教えて下さい(本来「テアトロ」や「シアターアーツ」の仕事なんだけども)。いや知りたいのは、要するに日本の演劇人はブレヒトを消化できたのか、できなかったのか、という一事なのだが。あるいは、シアターXとは関係ないが、俳優座や桐朋学園で千田是也がやったブレヒトってのは、結局何だったのか? 今や影も形もないわけだが。岩淵先生は「新劇のモダニズムの末尾を飾るつもりで自分はブレヒトを紹介し翻訳した。ミュラーみたいなポストモダン的解釈はよくわからん」と書いておられるが、しかしその肝心の新劇が、ブレヒトという遺産を喪失していることが最大の問題ではないだろうか(広渡氏だけが例外か?)。そこを問わずに、若い演劇人が「ポストモダン的解釈」に走ることを非難しても仕方がないと思うのですよ、私は。今度岩淵先生と直接議論してみよう。
もっとも、岩淵先生のおっしゃることに共感できるところはあるのだ。ただ私としては、思想の問題にパラフレーズして言えば、ハーバーマスがアドルノを批判的に継承したうえで、近代的理性の再構築に臨んだような、弁証法的な手続きが要るんじゃないかと思っているわけです。ブレヒトを再評価するとしても。
つーか、もっと言っちゃうけど、千田是也ってのは結局何だったのか? 日本演劇界では完全に神話化された存在だけど、神話ではなく実質を伴った何かを、彼は本当に残しているのか?? 「近代俳優術」すら誰も手に取らない今日に、なお残るような何かを???
新劇人は、ひとり残らずこういう問いを回避するわけだが(みんな「千田先生の思い出」なら喜々として語る癖に、だ!)、そんなことでは21世紀の前半のうちに、新劇ってこの世から消えてなくなるんじゃないか? あるいは、伝統芸能のひとつとして「新国立劇場」にのみ保存されるとか? だってねー、テクニックとしての演技術だけを残したって、意味ないでしょうが。
こういう言い方はしたくないが、例えば鈴木忠志氏なら、自分が作り出したメソッドを思想的なコアの部分まで含めて後代に託すべく、まさに死力を尽くしているわけですよ。新劇に、そこまでの気迫はないでしょ。スタニスラフスキーも、メイエルホリドも、ブレヒトも、ぜんぶ未消化のまんま「千田先生は偉かった」って、ああこれがいかにも日本的な外来文化の吸収のしかたなのかとも思うけど、嬉しそうに鈴江や松田や鐘下や坂手や永井(この御仁たちだって、ぜんぶ小劇場の劇作家じゃないか)の戯曲をやる前に、もっとやることあるんじゃないのかねー、新劇人は。
以上は、もちろん、新劇への敬意をこめて言っているわけです。ここで吠えるだけじゃなくて、これからあちこちで挑発しますから、新劇を背負って立つ方々は、どうぞ公の場で大岡をコテンパンにやっつけて下さい。