本日は、3月14日に月見の里学遊館で開催するVOJAゴスペルライブに挿入する、ミュージカル・シーンの稽古初日でした。東京からアーティストを招聘する場合でも、できる限りオリジナルのステージに挑戦してもらうという学遊館の方針に賛同していただき、ライブの真ん中に、オー・ヘンリーの短編小説「賢者の贈り物」をミュージカル化した20分程度の場面を組み込むことになった次第です(ちなみに昨年はマーク・トゥエイン『ハックルベリー・フィンの冒険』を脚色して、ゴスペル歌唱と組み合わせて、袋井の小学生に群読してもらいました)。既に大岡組の常連となっている、静岡の雅ちゃんと颯太君に出演してもらうことになりました。2人には、これから歌のレッスンにも通ってもらうことになっています。

こういうことを告白するとミュージカル関係者に怒られると思いますが、私は正直言って、ミュージカルを観に行くことにあまり興味がありません(笑)。宝塚も東宝も四季もほとんど観ていない。自分の頭にあるミュージカルのイメージと言えば、小さい頃に映画で観た『ウエスト・サイド物語』であり『サウンド・オブ・ミュージック』であり『屋根の上のバイオリン弾き』であり、そして何より、これはミュージカルという範疇に入れてはいけないのかもしれませんが、私の原点である『ブルース・ブラザース』ですな。その程度の材料しかないのです。ぜんぜん勉強していない。でも、俳優さんと一緒に歌の練習をしたり振付を考えたりすることはとても楽しいし、ミュージカル台本を書くことも大変だけど喜びを感じます。特にオリジナル作曲でいく場合、歌詞を考える作業が何より楽しいですね。つまり、自分でやるのが好きで、他人がやっているのを観るのはどうでもいい、という立場ですな(笑)。実は、売れない頃のスーパー・エキセントリック・シアターを追いかけていた時期もありますけど、これもほとんど記憶に残っていないです。

そこでふと思いつくんですけど、演劇やっている人たちって、私がミュージカルやっているような感覚で演劇やってるんでしょ。歴史も何も知らず、ただ自分でやるのが楽しいだけ、自分がやろうとしていることが既に誰かによって試されたかどうかなんて別にどうでもいい、という。だったら私もですね、自分がやっていて楽しいだけだ、文句あっか!というような、無責任なまま、肩の力を抜いて取り組める仕事をひとつくらい持っておきたいわけですよ。それに、ミュージカルってのは歌舞伎と同じで、本来「なんでもあり」の、敷居の低いジャンルなんじゃないですか。ラース・フォン・トリアー監督『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に対して「あんなのミュージカルじゃない!」と怒った人がいっぱいいたようで、まあ確かにトリアーは反アメリカ、反ミュージカルみたいなところがあるからそういう反応が出てくるのも仕方がないと思いますけど、でも、そもそも「これぞミュージカル」なんて基準が存在する偉そうなジャンルなのかね?という疑問は湧きます。一応言っておくと、演劇は2500年の歴史を有し、西洋の伝統と深く結びついたものですから、敷居が高くて当然なんですよ。でもミュージカルはそうではないでしょう。しょせん20世紀アメリカが生んだ大衆文化でしょう。様式化が芸術にとって死を意味するとすれば(←暴論:笑)、ミュージカルも「あんなのミュージカルじゃない!」なんて線引きをし始めたら、たちまちアクチュアリティを失いますよ。ブロードウェイの集客力が落ちてきているという話を聞きますが、そういう硬直化が進んだ結果でないことを祈るばかりです。

つーことで、わずか20分ですけど、ゴスペル・ミュージカルを作ります。難しい理屈は抜きで「楽しければなんでもあり」のエンタメ精神で臨みます。Mixiniaでやった『六白金星』もそうだしSPACの「朗読とピアノ」シリーズもそうでしたが、最近の大岡はエンタメ路線で突っ走っておりますよ。芸人としての原点に回帰しましたよ。そこでミュージカルは、これからの私の仕事の中心に据えてしまいたいジャンルであります。