1968年は、パリ5月革命をはじめとして、世界中で学生運動や社会運動が巻き起こり、後にウォーラーステインによって「反システム闘争」を生んだ画期として評価される、重要な年である。この68年の精神的高揚に象徴される1960年代は、1970年生まれの私にとって、いつも憧憬と羨望と嫉妬と反発とがないまぜの、愛憎半ばする対象であった。国外ではロックンロール、フリージャズ、ポップアート、ヌーヴェルヴァーグ等々、国内では反芸術、劇画、アングラ演劇、暗黒舞踏等々、文化芸術のラディカルな潮流だけをとりあげても、1960年代は、戦後世代の精神に一大変革がもたらされた時代であったことがわかる。つまり68年とは革命の年であったのだ。その歴史的意義を知るにつけ、私は「生まれるのが遅かった」という思いを募らせたものである。

この革命は、政治的には、新左翼運動によって牽引された。ソ連を中心とした既存の共産主義陣営(東側)に、大なり小なりシンパシーを持つ政治勢力を「旧左翼」と名指し、彼らが許容する一党独裁体制(スターリニズム)を批判し、同時に、アメリカを中心とした資本主義陣営(西側)に反逆することが、新左翼の存在理由であった。従ってそこでは、「あれかこれか」すなわち既存の二項対立ではなく、「あれでもこれでもない何か」すなわち第三の可能性を志向する想像力が問われたといってよい。理性も感性もないまぜとなった、狭義の政治性を超えるこの想像力が共有できるかどうかが、1968年革命の当事者か否かをわける指標だったということだろう。

ここで問題となるのは、「あれでもこれでもない何か」の「何か」をどうイメージするかである。レーニンは、マルクス・エンゲルスの著作の中から綱領らしきものをつぎはぎして『国家と革命』をまとめ上げ、強引に「プロレタリア独裁」という青写真を描き、十月革命に勝利した。だが新左翼的想像力においては、かつてマルクス・エンゲルスがそう考えていたように、共産主義とは絶えざる運動の中にしか存在しない未生の「何か」であって、「あれとは異なるこれ」として明確に措定できるものではなかっただろう。もちろん、それは概念化を阻む「何か」であるが故に、必然的に時代的・世代的制約を孕まざるをえない。絶えざる運動――それは今風にいえば「ノリ」でしかない。理屈で説明することはできないが、身体を動かしてノルことはできる、アモルファスな「何か」。それこそが、1968年革命の中核に位置するものだ。この「ノリ」を共有できない人々にとっては、新左翼運動は「極左冒険主義」にしか見えなかっただろうし、前衛芸術は「プチブル的退廃趣味」にしか見えなかっただろう。

さて、このたびSPACの俳優と静岡の地域劇団の俳優が結集し、60年代後半に静岡県に存在した前衛美術運動「幻触」の回顧展に連動して、「幻触」のイデオローグであった評論家・石子順造が最大級の賛辞を寄せた作品である、上杉清文・内山豊三郎=作『此処か彼方処か、はたまた何処か?』を、大岡演出で上演することとなった。これは、67/68年に、劇団・発見の会の研究生たちが主体となって上演した芝居である。タイトルが示唆する通り、1968年革命における「あれでもこれでもない何か」を、大胆にもわしづかみにすることを企図した芝居だといってよい。概念化はできないがノルことはできる「何か」、表象不能の表象を舞台に引っぱり出すために、彼らが持ち出したのはビートルズであった。ビートルズにノルこと。この上演で為されたのは、ただひたすらそれだけである。「あれでもこれでもない何か」に触れていると思しき、埴谷雄高や花田清輝の思考の断片が散りばめられ、それらを手がかりとして、ひたすらビートルズの音楽の数々にノル。そのノリのよさによってこの公演は、戦後演劇史に残る伝説の芝居として、今日に名を残しているのである。

時は過ぎ、ビートルズは「ロックンロール」の殿堂に入ったし、発見の会が探求した演劇は「アングラ演劇」というジャンルに腑分けされるようになった。「ロック」も「アングラ」も今では、表象不能の「何か」ではなく、表象可能な既知の項目でしかなくなった。それらは、1968年革命の抜け殻でしかないだろう。「生まれるのが遅かった」私たちとしては、それら抜け殻ではなく、時代的・世代的制約を超え、今改めて「あれでもこれでもない何か」にノルことを目指してみたい。資本は階級格差を拡大させ、国家は大衆の不満を排外主義へと誘導し、戦争の予兆に満ちる2014年に、1968年革命の中核に位置する「何か」を覚醒させること。かくのごとく、反復しえない「何か」を反復することこそ、演劇の本質なのかもしれない。

こんな愉快な試みが、もしも三たび反復されうるとしたら、それは、私たちみんなが死んだ後のことだろう。皆さんが目にすることができるのは、間違いなく今回限りだ。お見逃しなく!!