第17回BeSeTo演劇祭の関連企画BeSeTo+の「劇場法(仮)意見交換会」に出演しました。これ以外にも、USTREAMの生中継を収録したBeSeTo+の動画がいろいろ見られますので、こちらからお入り下さい。「劇場法(仮)意見交換会」では、演出家・劇作家の佐々木治己さんとふたりで吠えまくってみました(笑)。

劇場法について私がいささか危惧するのは、よそ様からは、舞台の人間が何を言ったところで結局は「税金よこせ」と言っているようにしか見えないんじゃないか、というところです。劇場法制定は私ら演劇業界人にとっては悲願でありますが、だったら同時に、財政再建や事業仕分けが叫ばれている経済状況に対してどう考えるのか、私らの側から何らかの見識を示さないと、ちょっと説得力が出ないんじゃないかと思います。その意味では、佐々木さんが所属するTAGTASが、劇場法とワンセットでベーシック・インカムを主張しているのは、大変良いことだと思いました。

一方私が言いたかったのは、劇場法云々以前の問題で、「よしやシビルは不自由にても、ポリチカルさえ自由なら」という有名なフレーズがありますけれども、これに倣って言えば、今こそ「シビルの自由」を確立すべきである、ということです。しかし「シビル」と言うからには「シビライズド」されていなければいけないはずで、つまり「市民」には「文化的成熟」が不可欠である、「文化的成熟」を果たして初めて「自由」が得られる、という考え方を確立すべきだろうと。そして、この考え方にコンセンサスが得られれば、その結果として、文化的優劣と政治的平等の矛盾をいくらか解きほぐし、劇場法(に代表される積極的な文化政策)を誕生させるセオリーが立てられるような気がします。格差社会への対応として、安価で質の高い芸術を提供する文化政策が必要だと言ってみても、現実に「文化」を欲しているのはどちらかというと高所得階層であり、「税金の無駄遣いをやめろ、構造改革しろ、郵政民営化しろ」と叫んでいるのはなぜか低所得階層だ、という歴然たる事実があり、この現実はなかなか覆りません。であれば、特定の階層を慰撫する玩具でなく、分断されつつある諸階層を再統合する装置として、「文化」を位置づけし直すのがよかろうかと思います。

外国人参政権の問題でも、こんな法改正を進める民主党は売国奴だ!とネトウヨの方々がやかましく主張しておられるわけですが、ではそもそも「市民権」とは何と引き替えに得られるものなのか?という根本的な問題提起をするべきではないかと思います。