この間の日曜日、『世界は踊る』宮崎公演の千秋楽を見届けて参りました。これにて、パスカル・ランベール演出『世界は踊る』日本ツアー終了です。埼玉、静岡、宮崎と、各地で御覧いただいた全てのお客様に御礼申し上げます。どうもありがとうございました。
『世界は踊る』をいわゆる「ポスト・ドラマ」に括るなら、ノンプロが主体であるという点でリミニ・プロトコルと比較するのが妥当かと思いますが、私個人としてはパスカル・ランベールの演出の方が好きでして、というのは、リミニ・プロトコルのやりかただとデジタル・メディアに依存している割合が大きいでしょう。でも、たとえ自分の身の上話を語るにしたって、誰しも自分を〈演ずる〉ことから逃れられないわけで、そう考えると〈演ずる〉という行為について、出演者も観客も自覚的である方がいいような気がするんですね(これはブレヒトの思想でもあります)。デジタル・メディアが介在することで「ノンフィクションっぽさ」が演出されるとなると、舞台が映像と同様に、虚構を現実と思い込ませる危険を背負い込むことになるわけで、そこは回避した方がいいんじゃないか。それより、いくらかは非日常化された身体で舞台に立ち声を発する方が、はじめから嘘だとわかっているぶん嘘がないんじゃないか、と改めて思いました。まあ私の場合、大がかりな装置を組んだり、映像を駆使したりする器用さが欠けているから、そう思うだけかもしれませんが。
実際、今回の舞台の主軸は、振付とも演技とも異なる「身体表現」としか言いようのないものだったわけでして、これには大いに共感しました。私自身『シベリアの道化師』で目指したのがまさにそのようなスタイルだったので、こういう言い方はおこがましいですが、ああフランスに先輩がいた、という感じがしました。先輩から本当に多くのことを学んだので、これから現場に生かします。というか、やっと演劇についてちゃんと勉強することができたという実感が湧いています。大学で研究するとか、おざなりの留学をするとか、そういう勉強の仕方ではなく、舞台を1本作りながら学ぶという learning by doing の姿勢を今回も貫くことができたのはラッキーでした。ちょっと自信がつきました。
ところで今日は、静岡県中部の高校演劇部の秋季公演で審査員を務め、最後の講評で、シェイクスピア『テンペスト』の蜷川幸雄演出とピーター・ブルック演出の違いについて触れたんですが。冒頭場面、蜷川幸雄が一瞬で船の装置を作り上げるのと対照的に、ピーター・ブルックはヨシ笈田をはじめとする俳優たちに竹竿のような棒を持たせて、その動きだけで荒波を表現してみせたんですな。私に「芝居って凄いな」と思わせたのはもちろん後者でして、あまり言いたくありませんけど、ピーター・ブルックにはずいぶん影響を受けてしまいました。彼の演出したオペラ『ドン・ジョヴァンニ』は、これまで観た舞台のベスト5に入ります。だから、不器用ってのも大きいですけど、そもそも映像を使ったりするのはなんだか気恥ずかしいんですよね。どうせ使うなら時々自動やロベール・ルパージュくらいのことをやらなきゃ意味がないという気もするし。
さてこれから、年内は『SPAC俳優による朗読とピアノの午後』が計5日間続きます(またロダン館でもやります)。あと、戯曲の書き下ろしという無謀なこともやっています。引き続きお楽しみ下さい。