非常勤講師で食いつなぐ私のような人間は、1年のうちで4月が最も忙しいシーズンです。新年度・新学期の準備が集中するからですが、語学の先生ならまだしも使いまわしがききそうですけど、私はそれぞれの学校で引き受けている講義の内容が異なるので、毎日準備で忙殺されています。本当はこの日記で批評しておきたいものがいっぱいあるのですが、なかなか叶いません。仕方がないので、それぞれ簡単に触れておきます。

きたく子ども劇場シアターディレクターの津田ますひろさんが代表を務め、アマチュアの若い子たちがキャスト・スタッフで参加しているPLAYHOUSE花楽郷の公演「可愛い千里眼」は、傑作でした。最近観た芝居の中で、本気で感動できた稀有な公演でした。「素人なのに」などと割り引いて評価するわけではなく、プロの舞台と比べてもなんら遜色のない出来だったと思います。津田さんの演出家としての指導力に感服しました。桐朋で、演劇専攻ではないのに私の授業をとってくれていた、ダッタラ役の八代名菜子さんに誘ってもらったのですが、八代さんは凄い女優でした。プロの道を目指すと決めたようなので、敢えて名前を出しておきます。これからも活躍して下さい。

蜷川幸雄演出「KITCHEN キッチン」については、SANDのメルマガ「SANDWICH」で批評しておきました(http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000150611)。また、これを劇評サイトWonderlandさん(コンテンツの充実ぶりに目を見張るものがあります)に紹介していただきました(http://wonderland.tinyalice.net/cgi/mt/archives/000325.html#more)。毎度どうもありがとうございます。ほとんど書くべきことは書いてしまいました。付け加えれば、文学座の香月弥生さんが演ずるヴァイオレットが、なかなか良かったと思いました。昔のプライドを捨てられず、ついには、主人公ペーターを「野蛮なドイツっぽ」と罵るに至る心境の変化が、よく伝わってきました。

うずめ劇場「ねずみ狩り」については、上記Wonderlandの北嶋孝さんによる総括が、全てを言い当てていると思います(http://wonderland.tinyalice.net/cgi/mt/archives/000324.html)。まあ、別に悪い作品だとは思わなかったのですが、ただ事前に「刺激的」だとか何だとかいう惹句を見て、ああたぶん俳優が全裸になったりするのかな、と予想して出かけたら、本当にその通りだったので、ちょっと拍子抜けしてしまいました。会場がシアターXだったのですが、スズナリのような劇場で観たらもう少し迫力を感じたかもしれません。

北嶋さんの批評を読んでいて思ったのですが、ゲスナーさんは、もう日本の演劇業界では十分に認知された存在なのだから、日本で芝居に携わることの意味を、もう一度深く問い直したら良いのではないでしょうか。私は、ゲスナーさんに限らず海外の演劇人が日本で活動するのは、本当は凄くしんどいことだろうと思うのです。少なくとも、私が感じているしんどさと同じ位の心理的負担を抱えていないのだとしたら、それは単に、自分に対して嘘をついているだけでしょう。そもそも、日本人は現代芸術などというものを必要としていないのです。別に、そんなものがなくても幸せに生きていけるのだから、無理に「啓蒙」などしてほしくないのです。我々は、娯楽にうつつを抜かす暇があったら、仕事のための勉強に時間を使いたいと考える、勤勉な国民です。娯楽は、テレビと、居酒屋と、カラオケくらいでもう満足なのです。テレビはレベルが低いとか、そんな批判は聞きたくもありません。疲れて家に帰ってから、「高尚な」芸術に触れるような精神的余裕など、誰も持ち合わせてはいないのです。それは、繰り返しますが、我々が勤勉であることの裏返しなのです。海外から日本にやってきた演劇人の皆さん、なるほど我が国の演劇のレベルは貴国とは比べ物にならないくらい低い。そのことはもういいです。それよりも、貴国の労働者大衆が、我が国では誰もが耐えている「朝の通勤ラッシュ」や「サービス残業」や「ウサギ小屋」に耐えられるかどうか、よくお考え下さい。私のような河原乞食でも禄を食むことができているのは、我が国の労働者大衆の勤勉さが生み出した、経済的余裕のおかげでしかありません。そしてそれは、この国で暮らす限り、あなた方にも当てはまってしまう話です。それでもこの国で活動を続けるなら、「演劇など別になくても誰も困らないが、逆に、あっても誰も困らない」という構えを強いられます。要するに、あってもなくてもどっちでもいいものを、我々は生業としているわけです。迫害もされない代わりに、尊敬もされません。勤勉な労働者大衆には、どれだけ目立ったことをやっても「自己満足」としか受け取ってもらえないでしょう。そうでなければ、ただ無視されるだけです。演劇は観客が存在して初めて成立するジャンルですから、「後世評価される」などと自分に言い訳するわけにもいかないので、無視されるのは辛いですね。精神衛生によくない。仮に演劇を必要とする少数派が存在するとしても、それは大学生とか、派遣OLとか、フリーターとか、我々演劇人と同様に、我が国の経済力にぶらさがって生きている人種だけです。確かに、フリーライダーであるがゆえの疎外感を埋め合わせるには、演劇や芸術に触れる体験は有効でしょう。「わかる人にしかわからない」などと悦に入っていれば、その瞬間だけは、労働者大衆に対して優位に立てたような気がするわけですから。……と、そこまでわかっていながら、なぜこの国にとどまっているのですが、と私は聞きたいのです。え、私ですか? 私が演劇をやる場としてこの国を選んでいるのは、演劇的な脈絡とは関係がありません。私は、資本主義は根本的に間違った社会システムであり、これに敵対するのが信条ですから、中途半端に許容などしてくれない位がちょうどいいのです。ただまあ、自分と同じように資本主義に敵対することを強いられている人に対しては、お節介ながら、いささか勇気を与えるようなことをしてみたいと思っているからこそ、演劇を続けてはいるわけです。しかし、そんな人なんて、この国全体から見ればほんの一握りしかおらず、劇場で出会えるかどうかすら怪しいです。従って私のような人間は、未知なる他者を勝手に想定して、それに向けてぶつくさとモノローグを吐くかのような、狂気じみた性格を帯びる他ありません。私の芝居もまた、そんな代物だと思います。繰り返しますが、それは私が、資本主義を否認するがために強いられた姿勢であり、そこに潜在するのは政治的な問題であって芸術的な問題ではありません。だから私は、純粋に演劇をやりたいという人たちがなぜこの国にとどまっているのかは、理解ができないのです。おっと、これはもう海外から来た演劇人へのメッセージではなく、この国の演劇人全体へのメッセージになってしまいましたな。

追記。舞台芸術財団演劇人会議の機関誌『演劇人』で連載していた演劇時評「辺境のモダニズム」が、現在店頭に並んでいる第19号掲載「ポスト・アングラの潮流を追って」で最終回となりました。毎回30枚を脱稿するのは大変でしたけど、時評は一度やってみたかったので、山村武善編集長のもとでやらせてもらえたのは本当にラッキーでした。今回は、地点、チェルフィッチュ、小鳥クロックワーク、犯罪友の会を取り上げました。大書店の演劇コーナーでお買い求め下さい。