SAND(Social Artists Network for Democracy )による「SAND1日夏期講習」と題したワークショップを実施すべく、代々木オリンピックセンターへ。ほとんど宣伝しなかったので、結局内輪のメンバーによるお試しワークショップの会になってしまった。内容はそんなに悪くなかったんだけど……。
id:quawabeさんによる音楽の時間「世界を揺るがせた十曲」(もちろんジョン・リードのパロディである。読者諸兄はおわかりかな?)は、quawabeさんセレクションによる、ロック史を代表するヒットナンバー10曲を鑑賞するというシンプルな内容。ワークショップ的なしかけも設定されているのだが、それより圧巻だったのは、その10曲それぞれの背景を「人種」と「階級」という二つの座標軸によって整理してみせる、quawabeさんの語りである。本人は、カルスタ系の論客にしてみれば常識のようなことしか喋っていないと謙遜しているが、私は、カルスタだかポスコロだか知らないが、単なる受験秀才の癖に「不良」を気取ってみせる若手アカデミシャンの退屈な講義なんぞ興味ないのであって、これはやはり、ロックンロールに対する思い入れが人一倍深いquawabeさんだからこそ説得力を醸し出す、実存を賭けた十八番芸として受け止めた。このワークショップはもちろん内輪でとどめておくわけにはいかないので、来年早々にもイベント化してしまいたい。
大岡による国語の時間「声に出して読めない日本語」(もちろん斎藤孝のパロディである。読者諸兄は……わかるよな、いくら何でも)は、敢えて群読に向いていない、韻律を欠いた散文(しかし音楽性を喪失した散文こそが、言文一致以降、日本近代文芸の主流に位置しているわけだ)を選んで、集団で音読の方法を模索するという内容。具体的には以下の通りである。
(1)平出隆の長編詩「胡桃の戦意のために」の一節を、チーム毎に音読。
(2)サミュエル・ベケット「あのとき」の一節を、ひとりひとり、読点をどこに挿入するか工夫しながら音読。
(3)土方巽「慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる」を、シンプルに全員で群読。
大して用意もせず直感的にテキストを選んだら、毎度毎度の大岡テイストそのまんま、安直極まりないセレクションになってしまい、SANDメンバーの失笑を買った。それはともかく、実際にやってみて気づいたことだが、斎藤孝が称揚する日本語の身体性=音楽性を活かした音読というのは、ただもう楽譜に従って歌を歌うようなもので、そこにはなんら創意工夫を介在させる余地がない。伝統はひたすら墨守されねばならないというスタティックな考え方なのだろうが、これでは反動のための反動とでも形容するほかなく、日本近代が抱える宿痾から目を逸らす効果しか果たしていないと思われる。対照的に私の「声に出して読めない日本語」は、日本近代の時代精神に走る裂開を凝視し、深い漆黒を看取するワークショップなのである(?!)。ちなみに、日本の文芸の中でそうした裂開がまざまざと刻印されているのは、現代詩というジャンルである。この私見については、以前、現代詩人の守中高明氏に意見を求めたところ同意してもらえたので、ちょっと自信を持っている。近いうちに原稿で披瀝するかもしれない。