川越の大学のテキスト作成会議のために、市ヶ谷にある某教育コンサルタント会社へ。テキストの作成はあっという間に終わったのだが、話題となったのはやはり、ああいう偏差値の低い大学に通う学生たちのことである。受験勉強を経験せず単科入試や推薦制度で入学し、およそ意欲というものを喪失している学生たちに、いったいどういう教育を施すことができるのか。「いまどき高卒で就職しようとしても、工場はみんな中国に移転してしまい、まともな就職先など存在しない。とすれば、とにかく大学に入学させ、そこで知識産業に適応できるリテラシーを身につけさせるほかない」と学長さんは言っている。経営者が抱く危機感としてはよくわかる理屈だが、現場で学生と接した実感からすれば、それは飽くまでビジネスの論理でしかないんじゃないかという気もする。私は、学生たちがああいう大学に通っているのは、親のエゴに従った結果でしかないと受け止めている。彼らの多くは本人の資質からすれば、大学にも専門学校にも通わず今すぐ就職し、職業教育を通して人間的に成長していくのが最善の選択ではあるのだ。しかし彼らの親たちは、自分の子供にどういう進路を選ばせるべきか判断することができず、たまたま貯蓄があったために「とりあえず大学へ」と学費を払っているのが実情であろう。今の日本社会の中で、こうした学生たちの存在は宙に浮いてしまっている。無名大学と専門学校は、日本社会の矛盾の集約点といって過言ではない。現在の階層分化を前提とする限り、実利と離れた一般教養などというものは金持ちの子弟にのみ許される嗜好品でしかない。大半の大学は「研究と教育の両立」なんぞはさっさと諦め、教育機関に特化すべきだ。大学も学生も学生の親達も、皆が皆モラトリアムにまどろんでいる現状は醜悪だ。
そこで文部省は、ただちに政策転換し「大学進学率を下げる」べきである。その代わりに、OJTのような企業内の人材育成(コンサル会社へのアウトソーシングを含め)に対して積極的に助成をおこない、また、大学における社会人学生の受け入れ(再教育)を加速化させる策を練るべきであろう。寺子屋には武家や大商人の子弟が通い、大半の子供は丁稚奉公を通して成長し、暖簾分けを目標として努力するという、江戸時代の都市民のスタイルに復帰する以外に答えはない。明治維新以来の近代的教育制度が音をたてて解体する過程に、我々は立ち会っているのかもしれない。