今年も、はままつ演劇人形劇フェスティバルのシーズンとなりました。このフェスティバルで稽古風景を写真にとって下さっている、浜松写真連絡協議会の皆さんとのご縁で、第23回浜松フォトフェスティバルの関連企画として、大岡が写真をテーマとした講演会の講師を務めました(10月21日、浜松市市民協働センター)。そこでお話ししたことの概略を、まとめておこうと思います。講演会で話し損ねた内容も加えておきます。
 
タイトルは「写真の怖さについて」。
 
なぜ私が写真に関心を持たずに来たかといえば、写真という媒体に固有の“怖さ”があるからだと思う。かつて、3人並んだら真ん中の1人が魂を抜かれるというフォークロアが存在した。このように、前近代的なフォークロアが、近代的なテクノロジーと結合してしまうのは、なぜなのだろう。
 
心霊写真の“怖さ”を考えると、写真に備わる、撮ろうと思っていないものまで撮ってしまう、写したくないものまで写してしまうという特性が、心霊的なものをそこに見出す根拠になっているのではないか。ケネディ暗殺映像に真犯人が映っているとか、アポロの月面着陸の画像が写真家の目には偽造に見えるとか、9.11の際の国防総省の写真に飛行機の残骸が全く映っていないとか、その手の話にまつわる“怖さ”。それは、私たちの視覚による認識を根底から覆しうる、写真による認識のもたらす“怖さ”だとしか言いようがない。たとえ、軍産複合体がケネディを暗殺したとしても、宇宙飛行士は月面に降り立っていなかったとしても、9.11が米国の自作自演だったとしても、その事実そのものが恐怖感をもたらすとは思えない。やはり、そのような認識の転換をもたらす写真が“怖い”のだ。
 
私たちの目が捉えた世界が、曖昧で不確かであるどころか、根底から覆されるかのような感覚。それは例えば、テープレコーダーで自分の声を聴いたり、写真撮影された自分の顔を見たりした際に、もたらされる。19世紀の初期写真の段階では、自分を撮影した写真を写真館にとりにきた人が、写真を間違えて持ち帰ってしまうことがよくあったそうだ。視覚による自己認識が、左右反転させた鏡像によってもたらされるとすれば、さらにそれを左右反転させた像が私の顔である。人類最初の肖像写真の被写体となった人物は、そこに映された自分の姿を見て、何を感じたろうか。鏡で見慣れた顔とは異なる顔を見出して、おそらくは、とてつもない違和感を覚えたに違いない。
 
さらに、人物を被写体とする初期写真は、その人物が「こちらを見ている」と感じさせるために正視できないと捉えられていたことを、ベンヤミンが『写真小史』で報告している。ほかならぬこの私が、写真にとられると、よそよそしい存在へと変貌し、まるで不気味な肖像画のように、あるいは生霊のように、目を光らせ続けるというわけだ。複製技術によってもたらされる、この私の身体の変貌あるいは分裂。三島由紀夫は戯曲『葵上』で、電話の声の主である女性と、その女性の身体が分離するというしかけによって、生霊の存在を舞台上に提示してみせた。ここで電話という媒体が選ばれているのは示唆的である。携帯電話をかけている当の相手を、電話しながら目撃してしまった瞬間の奇怪さは、むしろ今日においてこそ頻繁に経験されるようになった。写真と同様に電話もまた、身体を分裂させてしまう。ベンヤミンは、初期写真の被写体がこのような変貌を遂げる背景として、被写体が長時間に渡り姿勢を固定せねばならなかったことを挙げている。そのような緊張と集中が、別人のような相貌を生み出し、さらにはアウラをまとうというわけだ。
 
かくして初期写真の担い手たちが、人間を変貌/分裂させる媒体としての特性に直面したことから、文字通り人間を変貌/分裂させた心霊写真の発明に至るのは、ごく自然な流れだったと考えられる。ロラン・バルトは『明るい部屋』で、写真にとられる際、被写体である我々は「小さな死」を経験すると言っている。撮影者の視線に支配され、生きているとも死んでいるとも言い難い、人間と人形との狭間に落ち込んだような、宙吊りにされた状態。バルトは、この点で写真は演劇と近いメディアだと喝破する。演劇もまた――能のような古典芸能に遡れば自明のことだが――「死」を演ずるメディアではあった。
 
思えばロケット・ペンダントは、ヴィクトリア女王が最愛のアルバート公を失って後、公の思い出を秘めたモーニング・アクセサリーとして身につけたところ、それが流行となって定着したそうである。親しい者の髪の毛などを封入した、「死」に近接するガジェットが、やがて写真を入れることになるのは、当然の流れであったろう。死者の思い出としての写真は、単なる写真を超えて、霊気を宿したフェティッシュと化したことだろう。明治天皇の御真影もまた、なにやら「死」の領域を感じさせるアウラをまとったフェティッシュだったに違いない。初期心霊写真も、その牧歌的な内容から推察するに、やはり護符のような機能を果たしていたのかもしれない。1916年に撮影された妖精写真も、「死」と交感する少女たちの、あまりに美しいアウラを漂わせていたからこそ、その稚拙なトリックにも関わらず、コナン・ドイルをはじめとする知識人たちを魅了したに違いない。チャールズ・スターリッジ監督『フェアリーテイル』がそのあたりを巧みに描いているが、生死の境界を浮遊する少女のイメージは、全く無関係ではあるが、ピーター・ウィアー監督『ピクニック・アット・ハンギング・ロック』の方が鮮明に描いていると言えそうだ。
 
演劇の世界で、映像や録音がもたらす身体の変貌/分裂に着目したのは、サミュエル・ベケットである。『クラップ最後のテープ』や、晩年のテレビ作品群がその典型である。彼にとって俳優とは、ロラン・バルトが言うような「死」を演ずる存在だったのだろう。