劇場に来ない人々は、どこで何をしているか?


以下は先日、月見の里学遊館で実施した演出家・多田淳之介氏とのトークイベントをきっかけに、考えたことをまとめたものです。

90年代以来不況が慢性化し、ゼロ年代のいざなぎ超え景気も大企業の内部留保を増やしただけで終わってしまい、リーマンショックで更なる打撃に襲われ、回復もままならぬうちに震災と原発事故で追い打ちを食らい、世界同時株安で弱り目に祟り目、超円高で泣き面に蜂、もはやとどめを刺されようとしている日本経済。こうなってくると、私らのようなアリに寄生するキリギリスとしては、ぜいたくなことは言っていられない。劇場に足を運んで芸能や娯楽を享受して下さるのが、景気に左右されない安定した職業に従事する人や、遊んで暮らせるだけの資産を保有している人、引退して貯蓄と年金で悠々自適である人など、限られた層に絞られてしまうのは、如何ともし難いことである。

「商品力はあるのだから、後は広報を工夫して、より幅広い層に購入してもらおう」というのは、この手の話をすると必ず出てくる紋切型だが、もうこの手の「営業万能主義」をお経のように唱えても、何の現実味もない時代になってしまった。いかに商品に魅力があったところで、いかに営業が血の汗を流したところで、売れないものは売れない。この感覚を理解しないのは、高度成長期や安定成長期に働き盛りを迎えていた老人たちだろう。大手や海外と競合してしまったら、多少のアドバンテージは吹っ飛んでしまう。現在の経済状況では、よほどニッチな市場を独占しない限り、生き残りは難しい。思えば「ブルーオーシャン戦略」とはつまり独占戦略ではないのか。

ところで、『キューポラのある街』のような古い映画を見る限り、敗戦直後の工場労働者は、夕方5時位には仕事を終えて、残る時間をサークル活動に充てていたようだ。それは組合活動の時間であり、合唱運動や演劇運動や文芸運動の時間であったろう。今日の我々から見れば、その牧歌的な風景は桃源郷のようですらある。翻って、原発は炭坑節を産まなかったと発言した識者がいたが、至言である。放射線量が一定量に達する度に別の原発に移動する「原発ジプシー」は孤立した存在であり、連帯して階級文化を育むことができなかった。三池闘争は谷川雁や森崎和江のような表現者を産んだが、福島原発は表現者を産むことはできないだろう。

ところで今は、正規労働者がサービス残業を強いられ過剰労働に苦しみ、非正規労働者は働きたくても勤務時間を削られるという過酷な状況にある。震災以後は生産調整でラインが止まってしまい、正規か非正規かを問わず、週に3、4日程度しか勤務できなくなったという話もザラに聞く。経済格差が拡大する中で、末端の労働者は敗戦直後と同じように、たまさか時間の余裕は与えられているのかもしれない。だが、その時間を文化活動に充てているなどという人はもちろんごく少数だろう。では多くの労働者は、その空いてしまった時間に何をやっているのか。地方では、選択肢は限られている。テレビを見る。ネットを見る。ゲームをする。ドライブをする。ロードサイドショップで買い物をする。シネコンで映画を見る。パチスロに出かける。カラオケに出かける。酒を飲む。出会い系にアクセスする。風俗に出かける。……だいたいそんなところだろうか。

ざっと見て気がつくが、いずれも、個人で楽しめる娯楽ばかりであり、その多くは、大資本によって全国にチェーン展開している(かろうじて、出会い系や風俗だけが「地産地消」の形態をとどめており、微笑ましく思える)。では、現代の労働者は余暇においては、徹底的に分断され孤立化させらているかというと、そうとも言い切れない。個別の趣味を共有し情報を交換するサークルは、携帯やPCを介して、オンライン上に多種多様に存在している。そのサークルにアクセスすることで、たとえ匿名であれ、仮想のコミュニティに身を置く充足感は得られるだろう。これだけでは満足できず、仲間たちと祭りで神輿を担いだり、スポーツの団体競技で汗を流したり、まちづくりに取り組んだり、ボランティアに精出したり、海外旅行に繰り出したり、文化芸術活動に参加したり、総じてオフラインで人と人とのつながりを求めて行動する人たちは、よほど積極的な人格の持ち主か、よほど時間的金銭的精神的に余裕がある人か、いずれにしても少数派だ。

ここでひとつ気がつくことがある。宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』の中で、主には宮藤官九郎を評価しながら、一度は家族共同体や地域共同体、あるいは会社共同体の崩壊を経験した人々が、今再び緩やかなコミュニティの再形成に希望を見出しているのが、サブカルチャーを介して想定できるゼロ年代の精神的傾向であると述べていた。だがテン年代に入った今、このコミュニティ再形成は、あくまで仮想現実にとどまるものだと言わざるをえないようにも思う。それこそ、サブカルチャーが描いてみせる愉快な夢として消費されるだけなのではないか。いやしかし現実に、就職機会に恵まれないのなら、わざわざ都会で経済的に不安定な暮らしをするより、田舎で実家の支援を得て、昔ながらの仲間たちと助け合いながら、ぼちぼちカネも稼ぐ方がローリスクだと判断した若者たちの、ジモティ化が進んでいるではないか――そんな議論を聞いたこともあった。だが考えてみれば、これもゼロ年代に限った話なのかもしれない。地場産業が崩壊し、中央から誘致した大手メーカーとその下請けだけがかろうじて生き延び、それもグローバル化の下で合理化を強いられている地方では、都市への人口流出に歯止めがかからない。東京一極集中は加速するばかり。それがテン年代の現実であろう。若者たちのジモティ的な共同性への憧れは、浜崎あゆみや氣志團やEXILEを筆頭に、ドンキホーテの圧縮陳列に並ぶ薄味の「ヤンキー」表象との一体感を味わうことで、現実的な基盤を欠落させたまま、そこそこ満たされてしまっている。

では改めて、今日の労働者は余暇において、何によって精神的充足を得ているか。創造性を剥奪し、最小限の行為によって最大限の達成感を得る、大量生産された娯楽装置によって、というのがその答えであろう。かつて、連帯感に基づいて創造された階級文化というものがあった。なるほど、成長局面においては、増えゆくパイを分け合う喜びも得られただろう。だが今日のような衰退局面においては、人々は減りゆくパイを奪い合うしかなく、個人個人は潜在的に敵対関係にあり、連帯は成立しない。この空隙にサービス産業が入り込み、無為のまま行動を起こしているかのような、孤立したまま参加しているかのような充実感を与えてくれる、娯楽装置が供給されている。

ただひとつだけ、現在の労働者たちの中から自然発生した共同性があるとすれば、それは、近隣諸国を警戒し侮蔑し攻撃する排外感情である。その基盤はやはりオンラインである。ここでいかに優秀な扇動者が現れても、現実に社会を動かすことは難しいだろう。なぜなら、この排外感情は、連帯することは無効であると感じている多数派が、気分だけ連帯感を味わいたくてこしらえた、ヴァーチャルな産物に過ぎないからだ。保守系の運動が挫折しがちなのは、このような、自身が抱え込んだ矛盾に由来する。誰しも、保守思想にガス抜き以上のものを期待してはいないのだ、本当のところは。

だが今後、何が起こるかはわからない。ひとり遊びに興じることで保たれていた自我が、ひとり遊びを続けるためのささやかな経済基盤すら奪われたとしたら、赤貧の中で無為や空虚に沈潜することができるのか、あるいは逆上して暴走を開始することになるのか、それは私には判断がつかないからだ。いずれにせよ私たちは、万人の万人に対する闘争が徐々に顕在化する、国家滅亡の途上にある。