このあいだBeSeTo+のディスカッションで、「市民」というのは実体概念ではなく規範概念として捉えるべきではないか、という話をしたんですが。そしてそのためのしかけとして「市民権」を得るイニシエーションが必要ではないか、例えば合衆国を見習って、自治体への登録手続きを済ませない限り選挙権が行使できないシステムがあってもいいのではないか(このアイデアは昔、小沢一郎が提案していた)、なんて話をしました。
で、その後、改めて「市民」とは何かと考えていたんですが、例えば佐伯啓思氏は『「市民」とは誰か』(PHP新書)で、古代都市国家の市民と中世自治都市の市民の間に歴史的連続性は存在しないが、にも関わらずそこには共通する精神が見出される、それは、共同防衛の義務を積極的に担う連帯感だ、というような論旨を展開していました。これは、西尾幹二氏が『ヨーロッパの個人主義』(講談社現代新書)で、近代西洋の「個人主義」の背景に旧態依然たる階級社会を見出したり、長谷川三千子氏が『民主主義とは何なのか』(文春新書)で古代ギリシアまで遡って「民主主義」のいかがわしさを糾弾したり、保守派の論客たちがたびたび主張してきたことと一致しています。
このことを裏書するのは、前回のエントリーでも言及しましたが、岩波新書青版における名著中の名著、池田潔『自由と規律』です。著者は、英国のパブリックスクールにおける在学経験をもとに、自由と放埓を区別するのは、前者が規律に服し後者が服さない点にある、と喝破しています。この規律の真髄はスポーツマンシップにあるとも指摘されていて、日本の武士道精神にも相通ずる倫理感情が、スポーツを通して英国には根強く継承されているということがわかります。余談ですが、岩波新書は新赤版になってから以前にもまして教条的になっていく気がしますけれども、昔は度量が広くて面白かったのですね。
書店で「シティズンシップ教育」の概説書を立ち読みしたところ、「英国の教科書には、シティズンシップとは市民としての責務を果たすことだと簡潔に書かれてあり、ああすべし、こうすべからず、という徳目ばかりが並んでいて驚いた。あれは我々が考えるグローバル化時代のシティズンシップとは異なる」と著者(教育学者かな?)が述べているのを読んで、思わず笑ってしまいました。グローバル化がどうあれ、少なくとも英国民にとって「シティズンシップ」とは確かにそのようなものなのでしょう。そして、それは英国民に限らず、ヨーロッパ全体に共通する感覚なのではないですか。
佐伯啓思氏は、かくして「市民であること」を「国のために命を捨てること」=ナショナリズムとほぼ同義とみなすのですが、ここにはいささか飛躍があるように思います。市民としての共同防衛の義務は、「市民であること」によって享受できる恩恵とバーターで果たされるわけで、生まれながらにして平等に人権を保障される「国民であること」とは同一視できないんじゃないでしょうか。国民である以上誰しも認められる権利は同一なのだとすれば、ナポレオン戦争時のフランス国民ならいざ知らず、現代人なら「なぜわざわざ自分だけが命を捨てねばならないのか」という疑問を持つことは避けがたく、その意味で「国民皆兵」はモラルハザードの発生を防ぎようがないところが問題ではないかと考えます。
そうすると、「市民であること」とは、特権的な恩恵を伴い、恩恵に見合うだけの名誉を伴い、名誉を証立てる義務を伴う、従って「国民であること」とは次元を異にする、と考えるのが妥当ではありましょう。単なる「国民」とは異なり、自覚的に社会の担い手であることを選び取り、利他的な奉仕義務を果たしうる人々だけが、「市民」の名に値し、市民権を享受しうると考えれば、すっきりするんじゃないでしょうか。マスコミが第四権力と化している状況において、普通選挙というシステムは、特定勢力による大衆洗脳=衆愚政治への傾斜を阻止しえないわけで、私は改めて、制限選挙の効用を考えるべき時ではないかと思っているのですが。だいたい、自民党であれ民主党であれ、総理大臣の適否が業績よりも人格で判断されてしまい、「世論調査」なる擬似直接選挙によって議院内閣制の根幹が破壊されているのは、ゆゆしき事態です。私に言わせれば、首相公選制なんてのは「不敬」です(笑)。
例えば、昨今「参議院の形骸化」が問題視されていますが、衆議院議員は普通選挙で選出するとして、参議院議員は「市民=エリート」階級に限定された制限選挙によって選出する、という工夫が考えられると思います。どのみち格差拡大が避けられないのであれば、金持ちに対しては「ノブレス・オブリージュ」を課すべきです。キリスト教を持たず、武士道も忘却した現代日本の利己的な「勝ち組」に対しては、「カネは世のため人のために使え」というモラルを身につけさせるための制度が必要でしょう。私財を社会全体のために投じたり、自ら進んで兵役に就いたり、ボランティアに参加したりする「市民=エリート」に対しては、それと引き換えに参議院議員の選挙権・被選挙権を付与する。悪くないと思いますが。
そして文化・芸術も、本来はこのような「市民」が保護者となり、享受者となるべきなのです。私がふだんやっている仕事の方向性とは真逆ですが、理屈だけで考えるとそのような結論に至ります。