ジョルジュ・バタイユ「マダム・エドワルダ」をどう読むか?


 9月9日(日)14時から、本郷文化フォーラムにて、江戸糸あやつり人形座+普通劇場プレゼンツ「ジョルジュ・バタイユ降霊祭」を開催いたします(詳細は当サイトのSchedule欄を御覧下さい)。このイベントの前半で、バタイユの短編ポルノ小説「マダム・エドワルダ」(中条省平訳)を題材としたパフォーマンスを上演します。その予告編として、以下、私による「マダム・エドワルダ」の要約と解釈を披瀝してみたいと思います。
 
 

Ⅰ 要約

 

夜、街角でふたりの娼婦を目撃し、不安に襲われた私は、酒場を転々とした後、サン=ドニの売春街をさまよい、ズボンを脱ぎ、性器をつかんだ。再びズボンを穿き、私は「鏡の間」へ。娼婦たちの中から美しいエドワルダを選ぶ私。エドワルダと抱き合う私は、神の前にひきずりだされたような感じを味わう。自分の陰部を見せ「あたしは神なのよ」と言い、興奮するエドワルダ。彼女に求められるがままに、彼女の陰部にキスする私。私は女将に金を払い、ふたりは2階に上がる。部屋の中でふたりは性交し、その姿は、壁と天井を覆う鏡に映り、無限の鏡像へと散乱する。そして、白いストッキング、白いボレロ、仮面舞踏会のガウン、黒い仮面を身にまとうエドワルダ。エドワルダに誘われるまま、街路へと出るふたり。大空の下、駆け出したエドワルダを追う私。
 

深夜、通りに人影はない。エドワルダはサン=ドニ門の下で待っている。酔いの覚めた私は、彼女が神であることを知る。恐怖にかられ、笑い、門の柱を回りながらエドワルダを見失う私。エドワルダは大通りの向こう側のテラスの前に立ち、空虚なまま、生気のない声で「ここはどこ?」と尋ねる。私がからっぽの空を指すと、エドワルダは突如嫌悪にかられ、錯乱し、私を殴りつけ、「おまえなんかくそくらえだ」と叫び、倒れ、痙攣する。そして沈黙。エドワルダの心の闇を前に、私は苦しむ。けっして癒されない傷を抱える私。
 

夜の闇の中、もはや取り返しがつかないという思いで、エドワルダのそばにひざまずく私。のたうちまわるエドワルダを目にした私には、変化がおとずれていた。気がかりとも欲望とも無縁の、乾ききった陶酔が生じていた。エドワルダの発作はおさまり、私も車道に横たわり、私の服で彼女の体を覆ってやる。そしてエドワルダを抱きかかえ、大通りのタクシー乗り場へ連れて行く私。タクシーに乗ったふたりは疲れきって、運転手ともども動かない。ようやくエドワルダはレ・アルに行くよう指示し、車内でガウンとボレロを脱ぎ、「けものみたいに裸」と口にする。そして車をとめさせ、車の外から自分の陰部を運転手に示す。外に出た運転手にエドワルダは抱きつき、車の中へと誘う。私の真横で、運転手の上に乗り、硬直し、あえぎ、涙を流すエドワルダ。全ては死への転落につながっている。エドワルダは恍惚におぼれ、最後の痙攣に襲われる。ぐったりとした彼女の汗を拭いてやり、車内灯を消す私。やがて3人に眠りが訪れる。こんな無意味に意味があるのか?と問う私。存在がそこにあるのはただ「わからない」ためだし、神がそれを「わかっている」と言うのなら、神は豚だ。かくして私が最初に目覚める。残ったのは皮肉な気分、死への長い待機。
 
 

Ⅱ 解釈

 
 例えばデュマ・フィスは『椿姫』で、高級娼婦と青年との悲恋を扱ったし、ドストエフスキーは『罪と罰』で、殺人犯の魂の救済を少女娼婦に求めた。「肉体は穢れているが精神は清浄である」というのが、彼女たちに与えられたイメージである。思えば、ふだんは差別され忌避される卑賤な存在だからこそ、祝祭的な時空間において聖性を体現できるというのは、人類が慣れ親しんできたダイナミズムであった。このダイナミズムを前提としたとき、女性に求められる役割は「母性的であること」と「娼婦的であること」の二重性である。キリスト教圏において、マグダラのマリアが、ベタニアのマリアと混同され、「聖娼」のイメージを付与されてきたことも、その結果であろう。

 ジョルジュ・バタイユ「マダム・エドワルダ」も、基本的にはこの系譜に連なるものであろう。深夜のパリの娼館で、狂った娼婦に神を見出すことは、もちろん背徳的で冒涜的だが、同時に、古典的な発想に従っているとも言える。ただ、バタイユは神の存在を確信しているわけではない。「私」によるエロティシズムの実践は、禁忌を侵犯することによって神を挑発する、狂おしい試みとも見えるが、その試みは徒労に終わる。生命のエネルギーは空しく浪費される。三島由紀夫は逆に、言語の限界を超えた「見神体験」をそこに読み込んでいるが、小説の内容に即する限り、この「見神」は挫折感や空虚感を伴う、逆説的な行為であると言わざるをえない。事実この小説の最後で、存在するものがなぜ存在するかは「分からない」と言う他ないが、神がそれを「分かっている」と言うのなら神は豚だ、と「私」は罵る。このような憤怒の炸裂を「見神」と形容できるだろうか。むしろこの仮定法の響きはイワン・カラマーゾフを想起させる。「もしも神がいなければ、すべては許される」とイワンは懐疑の堂々巡りに苦しむが、この思想は「神の不在」へと読み替えられ、殺人へと帰結する。あるいはここでハイデガーを想起してもよい。ハイデガーによれば、たとえ神が存在するとしても神もまた一介の「存在するもの」に過ぎず、存在するものがなぜ存在するかという究極の問いには、答えようがない。

 とすればむしろ、束の間の救済を与えられたはずの「私」にたちまち空虚感を味わわせ、「私」の不安感をいっそうかきたて、「私」の期待する「見神」を裏切り不可能たらしめるエドワルダの過剰なる他者性こそが、バタイユの構想した、神なき時代の至高性を象徴しているのかもしれない。なるほどテクストを素直に読めば、マダム・エドワルダとは、疾走し、痙攣し、「私」以外の男とのセックスで絶頂に至る存在である。「母」の寛容さも「娼婦」の忠実さも、エドワルダに期待することはできない。そのような二重性をはぐらかすように、彼女はパリの街を疾走する。「私」にできることは、彼女を追いかけ、彼女の手を握り、彼女の汗をふいてやることだけだ。ただ、エドワルダの痙攣は、「私」へと伝播する。この小説の末尾はこう締め括られる――「私はふるえている」。この身体的な共振こそが、神なき時代における「見神」の体験なのかもしれない。
 

キリスト教は聖なるものを実体化したのだ。逆に、聖なるものの本性とは――今日ではまさにこの本性において宗教の熱き存在が認められるのだが――おそらく人間の間で生起するこの上なく捉え難いもののことなのだろう。というのも、聖なるものとは、共感的一体性の特権的な瞬間、ふだん抑圧されているものの痙攣性のコミュニケーションの瞬間にほかならないからである。
――ジョルジュ・バタイユ「聖なるもの」(酒井健訳『ランスの大聖堂』ちくま学芸文庫)