先週の金曜、SPACで「劇評ワークショップ」を、また翌土曜、月見の里学遊館で芸術批評講座「感動を伝えるレッスン」第1回「批評入門」を実施しました。偶然2日続きになりました。

SPACの「劇評ワークショップ」は、常連投稿者を中心に5名の方が参加され、そもそも劇評とは何か、何をどう書けば「感想」ではなく「劇評」となるのか、という原理論から始まり、劇評課題公演『若き俳優への手紙』の是非について、ヨーロッパと日本の文化風土の違いについて、参加者各人が執筆した劇評の出来について、と、活発な議論が交わされ、気がついてみたら予定を大幅に延長してワークショップは2時間45分に及んでおりました。

翌日の月見の里学遊館の「批評入門」は、総勢12名の参加者を得ました。お客さんは2~3人いれば上等だと思っていたので、驚きました。おみそれしました。まず前半では、私が過去に執筆した、3つの異なるジャンルを対象にした批評(ブルック父子の演出作品についての劇評、美輪明宏の歌唱についてのエッセイ、カフカの小説『アメリカ』についてのエッセイ)を取り上げ、これらがどのようにして書かれたかという裏話を披瀝しながら、「批評とは作品を介して自分の思いを伝える方法である」という原理論を語りました。また後半は、まずベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」をCDで鑑賞してもらい、次に、この曲にインスパイアされたトルストイの小説「クロイツェル・ソナタ」を読んでもらい、さらに、この小説にインスパイアされた小林秀雄のエッセイ「骨董」を読んでもらって、このように、先人の作品を受容することが「批評」行為であり、「批評」が連鎖することで「伝統」が形成されていくのだ、と、ベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」を参照しながら説明しました。

SPACでも月見の里学遊館でも、芸術作品を批評するという、はっきり言って極めて高度で知的な営為について、大変密度の濃い議論をすることができたので、ちょっと感動的な2日間でした。

実は、私が尊敬するある批評家の先生に、学遊館の芸術批評講座の講師を依頼したのですが、「地方でそんなことをやったって参加者がいなくて辛いだけだろう」と断られてしまったのですね。しかしこの2日間を前提とすると、正直言って、彼のような鋭敏な批評家にしてからが、アタマでっかちで世の中を眺めているだけじゃないか、と疑わざるを得ないです。まあ、アクチュアリティを失った書き手に、わざわざ仕事を発注するほど我々も暇ではない。文化芸術シーンの中心が徐々に地方へとシフトしつつあるという状況についてこられない人は、どうぞ大都市と共に沈没して下さいと言いたいです。犬は吠えるがキャラバンは進むってやつですかね。その点、アタシなんざ腐っても活動家ですな。理屈先行で世の中に関わってはいませんから。

月見の里学遊館の芸術批評講座は、音楽篇は菊地成孔氏、文学篇は鎌田哲哉氏、映画篇は大澤真幸氏という豪華ラインナップでお届けします。詳細はこちら。次回以降もふるってご参加下さい。