青年団リンク・地点『雌鳥の中のナイフ』を観に、小竹向原・アトリエ春風舎へ。演出は三浦基、脚本はデイヴィッド・ハロワー。
地点および三浦基氏は、舞台研究MLエウテルペで「三人姉妹」が話題となっていたこともあり、ぜひ一度観たいと思っていた。今回が初観劇である。
独特の台詞回し、観客に正対する身体性、性的アレゴリーとして機能する美術、テキストに対する知的な読解、そして、緊張感あふれる演出。これが噂の三浦演出か!と舌を巻いた。強烈なオリジナリティを発散しつつも、鈴木忠志から平田オリザに至るアングラ以降のパラダイムを正統的に踏まえ、また、おそらくはフランス留学によって習得したのだろうが、西洋の現代演劇に見られる洗練された美的センスをもじゅうぶんに吸収している。このままヨーロッパに持って行けば、オリエンタリズムの色眼鏡を抜きにして、正当な評価を得られるだろう。いやそれどころか、三浦氏は、本当の意味で海外の俳優を使いこなして世界水準の舞台を作ることができる、日本初の演出家となるかもしれない。京都に活動の拠点を移すそうだが、私も以前同じことを考えたことがあるから、その戦略の意味はよくわかる(勝手に想像しているだけだが)。私のような拙劣なオルガナイザーと違って失敗などせず、きっと彼は京都でうまくやるに違いない。正直言って、世代が近い日本の演出家の芝居で、これほど圧倒されたのは初めてのことである。こういう才能を育てることができた平田オリザ氏の懐の深さにも、ちょっと感心した。後進の育成は、アングラ世代の演劇人にはついぞできなかったことだから。
せっかくだから、雑誌「演劇人」の連載でも取り上げてみよう。批評家としては、これを取り上げないわけにはいかない。そこはフェアーに語ってみたいところである。
というわけで、この芝居を最大級に評価したうえで、ただ一演出家として、若干の違和感を覚えた点についても述べておきたい。私自身は、こういう明確な方法論に貫かれた芝居は、演出が前に出過ぎていて俳優の自由度が低いという感じがしてしまって(同じことは、チェルフィッチュの芝居や小鳥クロックワークの芝居でも感じたのだが)、別に否定などしないし実際観客としては楽しませてもらっているわけだが、自分の現場ではやるつもりがない。最近は「自分が俳優として参加したくなるような現場」を基準に据えている。そうなると、私の場合は俳優たちと共有できるスタンダードな方法論として、新劇的な演技術を使うしかなくなってしまうので、そのぶん新劇に迎合的に見えてしまうだろう。まあ、最近の私は自分のテーマとして、50年代~60年代の新劇の最先鋭な部分を継承し、新劇対アングラの対立を止揚するという大風呂敷を広げているから、それでもいいのであるが。嫉妬も込みで、一応付け加えておく。
しかし、アングラ第2世代の演劇人である、故・岸田理生さんや、犯罪友の会の武田一度さんの演出には、アングラとしか形容しようのない方法論を貫いているにも関わらず、俳優の自由度が低いという印象は持たないのである。大したものだ。