長らく観そびれていた「カッコーの巣の上で」を、DVDで鑑賞。

既に多くのことが語られ尽くした作品なのだろうから、もう何を付け加える必要もないが、なるほど名作であった。ミロス・フォアマン監督はチェコ出身で、68年の「プラハの春」の折にアメリカに亡命したということを、私は今の今まで知らずにいた(そういえばこの映画の中にも、テレビから「ベルリンの壁」云々という台詞が聞こえるシーンがあった)。抑圧的な体制から脱出した人物が描き出した世界観だけあって、ずしりと響く説得力を持っている映画である。

簡単に感想を記しておきたい。私の目には、刑務所から精神病院へと移送され囚われの身となる主人公マクマーフィ(ジャック・ニコルソン)が、イエス・キリストと二重写しに見えて仕方がなかった。例えば、マクマーフィと彼を慕う患者たちが共に病院を抜け出して釣りに出かけるくだりでは、イエスが猟師たちと船に乗り、大漁を招いたというエピソードを想起した。このときイエスは一番弟子シモンを始めとする青年たちの支持を集め、原始教団の原型を形成したと言われる。マクマーフィもまた、大漁ではなく一匹の大魚を得ただけではあったが、このときを境として、12使徒を思わせる患者集団から熱烈な信頼を得ることになるのだ。

また、イエスが死に至る直前には最後の晩餐が開かれるが、マクマーフィと患者たちも、終盤、病院内で乱痴気騒ぎを繰り広げる。そのくだりで、娼婦的な女性たちが心優しくマクマーフィを見守っているのも、マグダラのマリアを思わせた。

そして、この一夜の乱痴気騒ぎのさなかにマクマーフィがふと孤独に沈思黙考するシーンは、この映画を観た全ての観客の胸を打っただろう。最後の晩餐の後に、イエスはゲッセマネの園でただひとり祈りを捧げたそうだが、マクマーフィは病院の片隅に腰を落ち着け、己の使命と運命を見通した者に相応しい、物悲しくも崇高さを失わぬ透徹とした表情を見せる。ゲッセマネのイエスもかくやと思わせるほどの、ジャック・ニコルソンの名演技である。

そしてラスト。こうなるとイスカリオテのユダが登場する段だが、案の定、若い患者ビリーが婦長に対して、女性と寝るように自分を唆したのはマクマーフィだと告発するシーンが登場する。続くビリーの自殺に激昂して婦長の首を締めたマクマーフィはロボトミー手術によって廃人となってしまうが、殺してすらもらえないところに、古代ローマとは異なる現代の酷薄さが感じられる。しかし、マクマーフィを慕う“酋長”と渾名されるネイティヴ・アメリカンの男が、廃人と化したマクマーフィを殺し(この瞬間にマクマーフィの存在は聖化されたと言ってよい)、その遺志を継ぐかのように決然と病院から脱走するラストシーンでは、キリスト者ならずとも、ヨハネ伝の一節「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一粒にて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」を想起せずにはおれないだろう。

そうなのだ、つまりこの映画は、現代の精神病患者たちを原始教団のアレゴリーに見立て、現代社会におけるエクソダス(出エジプト)を描いた物語なのだ。さらに、フォアマン自身の亡命経験がそこに重ねられ、二重写し三重写しの奥深さが与えられている。アカデミーを総なめにしたのもむべなるかな。

ところで、以上のような感想は、既に常識的な見解になっているのだろうか? 我が国の教養あふれる映画評論家諸君は、このくらいのことは軽々と読み解いているのだろうか? まあ西洋人にしてみれば、言わずもがなの指摘に過ぎないのだろうが……。検索してみたところ、共感するところの多い感想を見つけたので、紹介しておきます。ゴールディングの「蝿の王」も参照されており、素晴らしい内容です。

http://blog.goo.ne.jp/asobinokuninoroba/d/20050104