どうも最近芝居の話、それも自分の芝居の話ばかり続いていて申し訳ない。本当は政治や経済の話をジャンジャンやりたいのだが、なにぶん余裕がない。それにここのところ、自分の演劇人としての活動をどうするか、改めて考え直さねばならぬような出来事が続いているので、おのずから内省的な話に傾きがちなのである。それにしても、自分のことで頭がいっぱいというのは、あまり生産的ではないね。

まあしかし、もともと私は、グズグズと思い悩むタイプではあるのだ。先日の「テクストの祝祭日」で上演した2本の寸劇についても、それなりに評判は良かったと思うのだが、ではあのような古典的なテキストを上演することにアクチュアリティがあるとまで言い切って良いかどうかと考えると、それはやはりそうではなく、今日の現実は今日の作家にしか写し取れないという気もしてしまう。かといって、今日的な風俗を巧みに舞台に導入するような売れっ子たちの手口には、安易さしか感じないのである。

商品劇場時代の私であれば、古典作品やら海外作品やら、時間的・空間的に〈いま・ここ〉から距離が開いているテキストを媒介として、〈いま・ここ〉を照射すればよい、と明快に断言しただろう。だが、そのような試みはどれほどうまくいったとしても、日本の観客、すなわち、文化的劣等感情に苛まれている大衆からは、「自分たちとは関係のない難しい話」と受け取られてしまう。ところが、欧米から白人が来日して同じような芝居を東京で上演すると、途端に喝采する観客が登場して他を圧倒するのだから笑ってしまう。しかしこれは東京だからであって、地方の観客ともなれば、外国人の芝居なんぞ興味も示さないだろう。

なぜこうなってしまうのか。私の仮説は二つあって、第一に、表現手法の問題として、言文一致以降の日本の書き言葉が、言葉の音楽性(韻律)を喪失してしまったために、演劇が散文的な意味を解読するジャンルに限定されてしまい、韻文的な表現をも楽しむジャンルになりえなかった。第二に、表現をとりまく環境の問題として、一億総中流の大衆化が進み、演劇を活性化させる観客の階級的限定が取り払われてしまった。以上二つの原因が複合して、現代日本における演劇の堕落が生じたというのが私の考えである。

第二の要因については、社会的な条件が変化すれば解決する可能性があるが(ただしそれは、日本に戦前のような上流階級が復活するという意味だが)、第一の要因については、もはや手のつけようがない。日本の演劇人の中で、この言葉の音楽性の問題を考え抜いたのは木下順二であるが、彼のような天才をもってしてもどうにもできなかったのだ。同様の問題を抱えているのは現代詩で、そもそも日本の近代詩は韻律を喪失して出発したために、徒に難解な前衛詩のような形式しか獲得できていない。ついでに、やはり詩を暗誦するような高踏的な慣習を担う階級が消え去ったために、現代詩もまた演劇と同様に、ジャンル全体が低迷を続けているのである。

このため、現代詩でかろうじて有名になりうるのが谷川俊太郎のような御仁であることと同様に、現代演劇の場合も、散文的な脈絡によって一義的に解釈でき、直接的に〈いま・ここ〉を表現していて、万人の共感を呼びうる物語しか、基本的には観客から支持されないという構造が、厳然と存在する。そしてそんな物語を上演するというのは、欧米の演劇の芸術的水準を前提とする限り、かなりダサい。

ここまではっきりしてしまえば、あとはもう、この構造に妥協するか、あるいは、きっぱりと背を向けて超然とした作品を創るか、その二つに一つしかない。日本にとどまるか海外に赴くか、という二者択一だと考えてもいい。

そして、ここが最も肝心なところなのだが、私はこれまでの人生でただの一度も、この二者択一のどちらか片方を選択する、という決断を下したことがないのである。むしろこの二者択一に答えを出すことを、忌避し、回避し、逃避し続けてきた。もちろん「どちらでもない」などという選択肢が存在しないことは承知したうえで、それでも、あたかも「どちらでもない」という答えが存在するかのように振る舞って、逃げ続けてきたのである。逃げては疲弊し、逃げては疲弊しの繰り返しであった。結果として、私の演出する芝居は、大向こうからもマニアからも支持されないような隘路に追い込まれることとなったのだろう。

いや本当のことを言えば、「どちらでもない」解はひとつだけ存在する。言葉の音楽性を文字通り音楽的に組織しつつ、大衆に訴えかける物語を上演するという第三の道。それを実行に移したのが、劇団四季のミュージカル路線である。私は浅利慶太の著作に親しんではいないが、あれが練りに練った結果として出てきた路線であることは、私なりに想像がつく。なにしろ「キャッツ」の原作はT・S・エリオットではないか。浅利慶太という御仁は相当な戦略家なのだろう。

そこでふと思い返せば、私がこれまで手がけた作品の中でも、かろうじて観客動員に成功した作品は、音楽劇だったりミュージカルだったりオペラだったり、音楽の役割を前面に押し出したものであった。私も、もし「どちらでもない」解に固執するのであれば、このあたりに突破口を見出すほかないのであろうか。

まだ続く……かもしれない。