普通劇場読書会で、村上春樹『1Q84』を読みました。まだ3巻が出ていないので、つっこんだ批評はできませんし、文学系ブロガーの諸兄姉がどんな評価を下しているのかもよく知りません。ただ、売れているということだけ知っています。

読書会で「なぜこんなに売れているのか」をあれこれ検討しました。まずこの小説の内容上の特徴を列挙すると、

(1)謎が謎を呼びいつまで経っても答えが見えないツインピークス感

(2)ミステリアスな状況に巻き込まれる主人公の受け身なデラシネ感

(3)不条理な展開とは裏腹のベタなロマンス感

(4)主要登場人物がみんな心の傷を抱えているトラウマ感

で、こういった諸要素の複合が、現代的といえばいえるんだろう、という結論に至りました。起承転結が見えないからこそ愛が大事、みたいな。人生に意味なんてないってわかってるんだけど意味を求めちゃう切なさ、みたいな。なんか香山リカさんにしかられそうですけど(笑)。そこはかとなく『新世紀エヴァンゲリオン』というか。実際、「ふかえり」は「綾波レイ」みたいな萌えキャラでしょう。既にみんな指摘していることでしょうけれども。

しかし、現代的である分、この世界観のどこが「1984年」なのかが私にはよくわかりませんでした。もちろん、村上春樹作品の魅力ってのは、同じ風景を見ているはずなのに、この人はなんて浮世離れしているんだと思わせる、あの過剰なお洒落感ではあるわけですが。それにしてもこの物語、「1984年」じゃなきゃいけない必然性ってないよなあ。

ふたつの物語が同時進行するという形式について言えば、これは『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を踏襲していますね。古い読者は、思わず『世界の終わりと……』を読んだ頃を、懐かしく想起したんじゃないですか。それこそ、あれが出版されたのは80年代なかばのことですな。読書会の中で、もはや純文学が純文学にとどまらず、SFやファンタジーの道具立てを大胆に取り入れているという指摘もあったんですが、それを言うなら、まさしく「1984年」頃の純文学シーンは、既にそんなものだったのです。私がリアルタイムで読んだ小説を思いつくままに、単行本化された年で列挙してみると、

井上ひさし『吉里吉里人』 1981年

村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』 1981年

安部公房『方舟さくら丸』 1984年

筒井康隆『虚航船団』 1984年

村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 1985年

倉橋由美子『アマノン国往還記』 1986年

日野啓三『砂丘が動くように』 1986年

大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』 1986年

いとうせいこう『ノーライフキング』 1988年

という具合に、どれもこれも見事にSFです。ちなみに、こういった小説群の大半が「双子による宝探し」という構造にあてはまってしまう凡庸さを有しており、また、同じ構造をなぞりながらかろうじてそこから逸脱する愚鈍さを有しているのが中上健次の『枯木灘』だ、と喝破したのが蓮實重彦の『小説から遠く離れて』です。まあ凡庸とか愚鈍とか形容する以前に、80年代とはそういう時代だった――もはや純文学が純文学としては成立せず、SFやファンタジーやミステリーの文法を借用しなければならなくなっていた、ということは重要だと思いますな。山口昌男の文化人類学がガイドの役割を果たしていました。私はもともと筒井康隆で文学に目覚め、フィリップ・K・ディックに心酔していたSFファンでしたから、こういう純文学の新傾向を歓迎していましたけどね。辛気臭い私小説なんか読みたくなかったので。上記『虚航船団』は、SFが逆に純文学として評価された例です。

それにしても、純文学の作家たちから私のような読者までを捉えた、あのSF的想像力って何だったんでしょうね。経済的には、貧困を解決しみんながそこそこ食えるようになり、政治的には、核の脅威の恒常化によって米ソ冷戦が永続すると思われていた状況で、個々人は、宮台さんの言葉を借りれば「終わりなき日常」に耐えるしかなくなっていた。それに耐えられなくなった精神が、こちらでもあちらでもないどこかを夢想した先――それが、SF的な異世界だったということになりましょうか。そういえば、どれもこれもディストピア小説の趣があります。

そしてもうひとつ重要なことは、このSF的想像力の延長線上で、地下鉄サリン事件が起きたということです。これも蓮實さんが指摘したことですけどね。『コインロッカー・ベイビーズ』の「ダチュラ」が代表格ですけど、東京で無差別テロをおこなうことが解放をもたらすというイメージは、80年代から既に小説や映画、アニメで頻出していました。90年代の作品ですけど『機動警察パトレイバー2』は、幻の戦闘機が突っ込んでくるところは9.11みたいですし、気球からガスが散布されるところは地下鉄サリンそのままです。こういう作品が、地下鉄サリン事件以前に数多く存在していた。そして村上春樹もまた、そのようなSF的想像力の圏域に位置していたひとりです。

従って結論としては、私は村上春樹が『1Q84』において、まさしく「1984年」的な手法を無反省に踏襲して「1984年」を描いていることに、不満を覚えます。この人は、オウム真理教とは何だったかという問題を、自分の身に引き寄せて考えることができていない。「オーウェルの予言とは対照的に、ビッグブラザーの時代が終わりリトルピープルの時代が始まった」ではダメですよ。だって、まさにそれこそが「1984年」を支配していた言説の典型ですから。「ポストモダン」ってそういうことでしょう。ちっとも自己相対化ができていないですね。そういう意味では、浦沢直樹の『20世紀少年』の方が、グルの心境を同時代的な精神の発露として捉えている点で、自己相対化の契機を孕んでいるし、エンタテインメントとしても優れていると思われます。私が問いたいのは、村上春樹よ、あなたは「1984年」にどこにいたのか?ってことです。これで、だいたいこの小説の総括はできてしまったんではないかな。

つーか、村上春樹って浦沢直樹を読んでないのか?というのが、読後の第一印象ではあったんですが。本人が読んでないなら編集者がひとこと言うべきだけど、それができないくらい春樹先生のグル化が進んでいるんでしょうか……。