神奈川県+神奈川県教育委員会+NPO法人STスポット横浜の主催するシンポジウム「アートと学校教育の連携を考える」を聴きに、BankART1929 Yokohamaへ。
前半は、神奈川県下の公立高校において、STスポット(http://www.jade.dti.ne.jp/~stspot/index.html)のアート教育事業部がコーディネーションし、アーティストが講師を務めた授業の事例報告。具体的には、横浜桜陽高等学校「演劇体験I」「演劇体験II」、藤沢総合高等学校「言葉と人間」、川崎高等学校「演劇」、鶴見総合高等学校「パフォーマンス」が、ビデオを交えて紹介された。いずれも総合的な学習の時間に導入されたようである。講師として登場したのは、演劇の授業を担当した演出家として、明神慈(ポかリン記憶舎)、夏井孝裕(reset-N)、横山仁一(東京オレンジ)、柏木陽(演劇百貨店)。また演劇以外では、書道家の武田双雲が登場した。演出家諸君は若手だけあってワークショップの設計がうまく、授業の内容はいずれもうまくいっていたようである。ただ鶴見総合高校だけは、授業を成立させるのに難渋したことがうかがえた。それだけに、私が最も興味を惹かれたのは、柏木氏が担当したこの事例であった。実は私自身、この高校には1日だけ演劇ワークショップで出かけたことがあり、なんとも大変な思いをしたことがある。芸術系の授業というのは、選択授業であれば集まるのはもともと意欲のある子たちだから、大概はスムースに運ぶものだ。しかし、本来こういう試みを導入する意義があるのは、やる気のない子まで参加してしまう底辺校かもしれない。その意味で、この鶴見の事例についてはもっと掘り下げて総括する必要があると感じたが、「最後にはみんな積極的になった、めでたしめでたし」という感じで話は終わってしまい、ちょっと勿体なかった。
後半は、事例報告を受けた形でパネリスト4名によるシンポジウム。パネリストの中に、なんとあの寺脇研が入っている。彼の話が聞きたくて私は出かけたようなものだ。現在は文化庁文化部長だそうだが、もちろん、文部省の官僚として「新しい学力観」「ゆとり教育」「生きる力」導入を進めた事務方の中心人物であり、まるで文科省のスポークスマンであるかのように積極的に発言する論客であり、ついでに、ポルノ映画の評論家としても知る人ぞ知る人物である。最近は学力低下が問題となる中で、「ゆとり教育」によって日本の子供の基礎学力を破壊した悪の元凶のように批判されている人物であるが、寺脇氏はそうした学力低下論争の憤懣を晴らすかのような勢いのある口調で、まずは、総合的学習の導入の成果が現れつつある現状を評価した。また、学校へのアーティスト招聘を可能にするインフラ整備の必要に議論が及ぶと、寺脇氏は、「上が予算をつけてくれるのを期待するような他力本願では駄目だ。お金があるからやるというのでは、ちっとも文化的ではない。だいいち高等学校は義務教育ではないのだから、予算の配分はもっと自由にやって、工夫すればよいではないか」と主張。まあここまでは結構な話なのだが、さらにこの提言を補足して曰く「聞いてもさっぱりわからない数学の授業なんかより、アートの授業の方がよほどためになることもあるだろう。だったら、そんなダメな授業に払っているお金を、アートの方に回せばいい。アートの授業のみならず数学の授業だって、常勤ではない形で外から優秀な先生がやってきて教えるという手もある」。これもまた、教育内容を多様化させレベルアップさせるために、人材を流動化させるべしという結構な提言と聞こえる。事実会場に詰めかけた聴衆も、好意的に受け止めているように見えた。
私はマスコミや論壇の様子しか見ていないから、寺脇という人は、先に述べた学力低下論争で和田春樹や苅谷剛彦にコテンパンにやっつけられ、文化庁に左遷(?)されちゃった人という漠然とした印象しかなかったのだが、この会場では、彼は大変に理解ある、温かいムードで迎えられているようで、驚いた。現場のリベラルな先生たちには「ゆとり教育」は基本的に肯定されているということなんだろうか? 神奈川は革新県政が長く続いたところだから、そういう風潮が強いのかもしれない。
閑話休題。ここで寺脇発言の意味を考えてみよう。彼はどうやら、大局的な指針として「教育改革=学校自由化」を促進するという立場をとっているようだ。学校の側は、カリキュラムを工夫したり人材を流動化させたりして特色ある学校づくりをおこない、生徒の側は、偏差値によって自動的に進学先を決められるのではなく、自分が行きたい学校に行く。こうした改革の前提として、公立学校経営の(部分的)自由化が不可欠というわけである。
なるほど、これまでのように文部省の通達や教育委員会の指導に唯々諾々と従うより、学校の自主性が増すのはいいことだろう。だが、そのための制度的な保証として実行されたことの一つが、学校長の裁量を拡大するということである。その結果、現場では何が起きているか。なるほど学校長・管理職に意欲がある場合は、それこそ総合的な学習の時間で面白い授業を導入したりして教育内容を改良しているかもしれないが、大半の公立高校では、労務管理が強化されているのが現実なのだ。最悪の場合は、日の丸・君が代強制のようなことが起きているだろう。
ここまで考えて私は、寺脇氏のように「画一性より個性を」「丸暗記の勉強より自分で考える力を」と主張する一見リベラルな教育観が、文部省で主導権をとった理由がようやく理解できた。つまり根本的には、自由化の導入という新保守主義的・新自由主義的改革を推進するのがこの立場なのだ。そう言えば岩木秀夫氏が「ゆとり教育から個性浪費社会へ」(ちくま新書)で、中曽根政権下で臨教審が提起した自由化論のインパクトを吸収した結果が「ゆとり教育」であり、寺脇氏はこの臨教審答申をそのまま「国民的コンセンサス」と認識してしまっていると指摘していたが、つまりこのことか!と実感が湧いた。
さて、先の寺脇発言に戻れば、慣例に従わない予算配分によってアート教育が導入できるというのは一見結構な話であるが、これは現実には何を意味するか。いみじくも彼が「そのぶんダメ教師に払うお金を減らせばいい」と言っているように、教育内容の多様化という建前の元に、能力の低い人材のリストラ(配置転換、減給、非正規雇用化、場合によっては解雇)を加速させることを意味するのではないか。だが、シンポジウムに出席しているアーティストたちは、「お金は貰えるなら貰える方がいい」といった程度の発言に終始していた。まあ彼らは数日間のプログラムで講師を務めただけだから仕方がない。教育というテーマに関しても、各自の経験に基づいた印象論を超える発言はなかった。そこへ行くと、私は授業がなくても毎週職員室に通う一年契約の非常勤講師であるから発言権があるはずだ、だいいちここで黙っていてはSANDメンバーの名が廃ると考えて、最後の質疑応答コーナーで発言。今日は芸術プロパーが多く教育プロパーが少なかったから、私の発言の意図するところは聴衆にはほとんど伝わらなかっただろう。そこで、言葉を補って私の発言をここに採録しておく。
今日は皆さん楽観的な発言に終始しているけれども、私は違うことを言ってみたい。私は学校の外の人間だから敢えて率直に言わせてもらうが、アート教育のような結構な試みがなされている一方で、現場の教員は異口同音に、ここ数年で教育現場は大変に厳しい状況を迎えていると言っている。労務管理は強化され、週5日制(※)で仕事の負担は増え、日の丸君が代は強制され、教育格差は拡大し、就職希望の生徒には就職先がなく、不登校はカジュアル化している。アートの授業に出てくるのは積極的な生徒たちで、本当にこういう授業を受けるべき、問題を抱えた生徒は授業の外にいるのだ。我々アーティストはそこには手がつけられないから、空しさを感じることも多い。結局アーティストにできることは、学校教育に対する補完的な役割でしかない。つまり大切なことは、こういう斬新な授業をどれだけ多く導入するかではなく、専任の先生方がやっていることがどれだけ活性化するかということに尽きる。実際、先生方の授業が旧態依然たる一斉授業ばかりでは、アートの授業も単なるガス抜きで終わってしまう(これまで体育の授業が果たしてきた役割だ)。とすると、なるほど寺脇さんが言うように人材を流動化させるのも一つの手ではあろうが、それより、一斉授業と参加型授業のコンビネーションによって教育手法を多様化させる方が効果的だろう。アーティストが関わるとすれば、そのための触媒となればよい。これなら人材が固定していてもできることだから(教育手法の開発に関心を持っている意欲的な教員は、どんな学校にも何人かいるはずだ)、コストも少なくて済む。ただ、例えば40人学級で参加型の授業などうまくできるわけがないのだから、20人学級を実現するというような制度設計は必要だろう。予算配分や制度設計を言うなら、こういう方向を考えてはどうか。
以上の発言は、本当は非常にインパクトのある発言である。なにしろ、教員ではなくてアーティストが、己の不利益を度外視して言っているのだから。内容は正論だし、同時に、リストラ対抗策にもなっている。これぞ職種を超えた階級的連帯、日教組の先生たちから拍手でも貰えるかと思ったがそんなことはなく(あるわけないか)、シンポジウム終了後に話しかけてくれた人はみんな学校の外の人たちだった。ちょっと情けないぞ、教員諸君。
パネリストの中からは、桜陽高校の教頭先生が、アートの授業は教員たちにも良い影響を与えているという報告を投げ返してくれたが、そこで時間オーバーとなってしまい、肝心の寺脇氏からレスポンスを貰うことはできなかった。まあいい。私も、こういう場で吠えるだけで終わらせるつもりはない。いずれまたどこかで対決することもあるだろう。
もちろん私の発言にも問題はあって、新教育的な教育手法を国語や数学のような主要教科に導入すると、学力の低い生徒に対してはマイナスに働くということを、苅谷剛彦がアメリカの事例に即して報告している(「教育改革の幻想」ちくま新書)。この批判にどう応えるかという課題は残るのだ。だが今日のシンポジウム(なんと120人もの聴衆が集まったそうだ)では、そういう問題意識を持っている人は、パネリストにも聴衆にもほとんどいないように見えた。うーん、ニューディール政策ってこんな感じだったんだろうか……。
ところで、今日つくづく思ったが、芸術と教育と、どちらにも精通していることが私にとっては大きなアドバンテージなのかもしれない。本格的に論陣を張れるように、もっと努力するべきかもしれない。
※学校週5日制の問題点については、こちらで詳しく論じられています。http://d.hatena.ne.jp/m-riki/20050123