川越の大学で、「文章表現法」前期の総括をする会議。ラフな集まりかと思ってラフな格好で出かけたものの、学長・学部長・事務長・事務課長など、ネクタイを締めた皆さんが勢ぞろいして、物々しい会議となった。しまった、だったらスーツで来れば良かった(ついでに、こういうときのためにバーニーズ・ニューヨークで購入したアタッシェ・ケースを見せびらかせば良かった!)と舌打ちしたが、でも先輩である講師2人は平然とラフな格好で来ているので、まあいいか、と思い直す。暑いしね。

2人も私も予備校講師である。これまでこの日記でははっきり書かなかったが、この「文章表現法」という科目は実は、学生の基礎教育を充実させるために、大学から我々予備校講師に発注が来て開設されたものなのだ。もう今や、大学の授業を予備校の先生が引き受ける時代なのである。「研究の府」などという建前にこだわっている限り、大学は容赦なく倒産の危機に近づいていく。恥も外聞もかなぐり捨てて、いまどきの学生の学力低下に対応しなければ、大学の経営は成り立たない。父母会まで作って、就職の面倒を見る過保護大学が、いまどき世間では評判のよい大学なのだ。学生自身「自由放任」など望んではいない。放任されれば際限なく遊んでしまうだけだから、縛りがきついくらいでちょうどいいとでも思っているのだろう。「主体性を持つ」なんてのは優等生の行動様式だ、自分たちとは関係がない、大学教員という人種もどうせ優等生のお仲間だろう、もうそういう建前は聞き飽きた、というのが彼らの気分だろう。だったら大学なんか来るな!と怒鳴りたくなるが、だって現に入学できたわけだし、親だってカネはあるし、あんたらだってその学費のおかげで食えてるんだろ、くらいのことは考えているかもしれない。

やはり根本的な解決は、財務省が大手銀行をコントロールしているように、文科省が大学の整理・統合を今以上に促進し、大学進学率を低下させることしかない。もちろん、当然ながら大学の先生は失業の危機にさらされるが、そこは社会人向け大学院のような生涯学習プログラムを拡充し、配置転換して雇用を維持できるよう、各大学が努力するしかあるまい。それでもなお失業してしまう人材は、これまでがぬるま湯だったとあきらめるしかなかろう。「構造改革」が国民的コンセンサスになっている限り、誰かが犠牲を甘受するしかないのだから。

だが、絶対に文科省は学生の数も大学の数も減らしはしない(国公立大学の独法化で「構造改革」を進めてはいるが、一方で、こんな御時世なのに新規で認可される私立大学がある)。これはいったいどういう理屈に基づいているのか。建前としては「第3次産業化」「知識産業化」「成熟社会化」に対応しているとのことだが、こういう認識が日本経済の実態に見合っているとは到底思えない(この国の経済の根幹は、依然として製造業が担っているのではないか?)。また、「みんなが大学に入ればみんなが平等」式の、日教組的な戦後民主主義がまことしやかに主張されることもあるが、文科省の役人がそんな理屈を信奉しているわけがない。ということは、大学の数を増やせばそれだけ天下り先も増えるという、役人の利益追求より他に動機は存在しないと思われる。国交省が日本中に高速道路やダムを作ってせっせと環境破壊を進めてきたのと、なんら変わりがない話なのだ(また事実、大学というのも立派なハコモノだしね。国公立の建物を新設するなら立派な「公共事業」だ)。文科省の役人は自分たちのエゴに従って、この国をエリート不在、リーダー不在の国家に改造してしまった責任を、どう取るつもりなのか。こんな馬鹿げた処置を施して喜ぶのは、アメリカ合衆国だけだろう。大日本帝国の遺産を自ら破壊しておきながら、「新しい歴史教科書」を歓迎したりするのだから、お役人さんというのも屈折した心情の持ち主ではある。まさに属国!

現場の話に戻そう。今日の会議でも痛感したのだが、いまどきの学生に「教養」を叩き込むのはほとんど不可能だし、無意味である。実際、教員と学生とのすれちがいは、悲劇を通り越して喜劇の域に達している。だいたい、少子化が進んでいるのに大学入学者数は年々増えているのだから、大学生の学力低下は、明らかに制度的矛盾の産物なのだ。この現状に処方箋があるとすれば、これは大前研一氏も言っていることだが、大学における教育を「実学」中心に組み直すしかあるまい。学生の側も「実学」しか飲み込めないのが実情である。「文章表現法」も、今後とも継続させるならば、もっと文書作成スキルに特化した内容に変えるべきかもしれない。

ところで「成城トランスカレッジ」さんに紹介していただきました。どうもありがとうございます。http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/