俳優に対する違和感


演劇についてさんざん語ってきた後で、こういうことを書くのもナンですが。

私は自分自身のポリシーとして、他人に依存しないと生きていけない人種とは、つきあわないようにしています。人間は孤独であり、死ぬときはひとりぼっちだ、という当然の前提を共有できない人のことは、人として尊敬できないからです。

ところで、演奏家の道具は楽器であり、画家の道具は絵筆であり、ダンサーの道具は身体であり、歌手の道具は歌声であるわけですが、では俳優の道具は何かと考えると、もちろん身体も使いますけど、突き詰めると、それ以上に自分自身の感情である、ってことになるんでしょう。自分自身の感情って、まるで外側から観察できないですね。客観視しようがないですね。自分自身の喜びや悲しみが、この瞬間にどれだけ表に現れているかなんてことを、リアルタイムで自分で測定することは不可能でしょう。ビデオに撮って後から確認することならできるかもしれませんが。

従って、俳優さんは、どうしても演出家を必要とするわけですな。

翻って私自身は、中学1年から芝居をやっていますから、そこから勘定すると既に四半世紀を芝居と共に過ごしてきたわけですが、中学1年から今に至るまで、この感情表現という奴が大の苦手でした。役に没入するということが、どうしてもできないのです。だってこっぱずかしいんだもん。

実のところ私は、人生最初にやりたいと思った仕事は芸人でして、今も基本的には、自分は芸人であるという自負を持っています。つまり、自分の感情なんていう厄介なものを使わなくても、身体の動きや、声の調子や、ミザンセーヌによって、観客をひきつけることは可能であると考えているわけです。事実、たまに俳優として舞台に立つ機会があると、台詞のテンポやら身体の見せ方やらミザンセーヌやらは滅茶苦茶計算していますが、役の感情なんてものは、まるで配慮したことがありません。「客席からそう見えればいいんだろ」という以上のことは考えられないので、例えば篠崎光正氏が言うような「本物の心を生む」なんていう課題には、全く関心が持てないのです。んなベタベタしたものは見たくねーよ、てかこのポストモダンのご時勢に「本物の心」なんてよく言ったもんだね、柄谷行人の『日本近代文学の起源』を読んだことないでしょ? 蓮実重彦の『物語批判序説』も読んだことないでしょ? あのねえ、「内面」ってのは近代が生んだ制度なんだぜ? なんて、思っちゃうわけです。篠崎氏は私の演出作品を見て「素人のレベルだ」とのたまったそうですが、大いに結構であります。おいら、パフォーマンス演出なら玄人ですが何か?ってなもんです。だったら、私みたいな「門外漢」の助けを得ている桐朋のふがいなさをこそ反省してもらいたいですな。

……なんて憎まれ口を叩かなくてもいいんですが、ともあれ、ストレートプレイの俳優さんというのは、常に演出家のダメ出しを必要とするわけですね。

私が芝居を演出するときは、俳優さんが自分から提案してくれるアイデアをいかに具体化するか、という作業しかやりませんので、ぎゃーぎゃーダメ出しするなんていうことはやらないわけです。ダメ出ししてまで実現したい絵柄というのを、そもそも自分の頭の中で想定していませんから。つーか、「ダメ出し」っていう言葉自体使ってませんからね。大岡組では、いわゆる「ダメ出し」タイムを「ふりかえり」と呼んでいます。

ハンス=ティース・レーマン氏の「ポスト・ドラマ」という概念に対して私は懐疑的ですが、それは、柄谷行人や蓮実重彦の議論を参照する限り、俳優の感情表現を主軸に据えた表現ジャンルとしての「ドラマ」は、極めて近代的な産物であると考えざるをえないので、それを乗り越えるととなると、もはや「ドラマ」という枠組自体を解体することになるんじゃないかと思うからです。従って私は、最近自分がやっていることは「パフォーマンス」であって「ドラマ」ではない、と簡潔に言い切る方が、「ポスト・ドラマ」なんてややこしいことを言うより、わかりやすいと考えています。例えば江戸時代を振り返れば、人形浄瑠璃から歌舞伎が派生したのであって、その逆ではないわけでしょう。そこまで含めて超歴史的に「ドラマ」という概念(レーマン氏が言う意味での)が使えるのかどうか、疑問です。

92年に演出家を名乗ってから今に至るまで、私のチームに残った俳優はただのひとりも存在しません。そのかわり、パフォーマーやミュージシャンや映像作家やスタッフといった連中はついて来てくれており、普通劇場という集団がいちおう存在しています。普通劇場は、基本的にピンでも立てる人たちが集まって、「人間最後はひとりぼっちだけど、それでもできることがあれば共同作業もやってみようぜ、だってその方が面白いじゃん」という動機で折に触れ現場を共有する、極めてクールな、まるでバンドみたいな集団であります。こういう集団なら成立するんですけど、俳優は絶対私のところにはいつかないですね。

ただ、アマチュアの社会人たちと芝居を作ることは得意でして、なぜかと考えると、社会人の方々は、既にしっかりと自己を確立しているからでしょうね。演出家に依存しなければ舞台に上がれない俳優たちとは、人種が異なるからでしょう。既に実人生の中で吸収したことを自分なりの方法でアウトプットしてくれ、という私の要求に、彼らの舞台に立つ動機がマッチするわけですね。

じゃあなんで大岡は演劇というジャンルに惹かれたのかと言えば、これはやっぱり、海外の舞台作品の影響でしょうね。強固な主体性の持ち主であるエリートたちが、社会全体をスケッチするために、敢えて他人に変身してみせる面白さ。以前タイで1ヶ月間遊んでいたことがありますが、そのときに見たパトラヴァディ・シアターの稽古は衝撃的でした。俳優同士がお互いにわーわー意見を出し合いながら場面を作って、もめたときだけマエストロに意見を求めるという、あの愉快な創作過程。あれを観たときは、芝居って面白いなと心から思いましたし、自分が作る稽古場は、なるべくあの雰囲気を出そうと心がけてきました。しかし日本の俳優さんは、あの光景を見たら「だったら芝居なんてやりたくない」と思うんじゃないかな。

大岡も来年で40歳ですけれど、今後日本国内でできることを考えると、やはり、歌唱や演奏を中心にした音楽劇ならできそうですが、俳優を使ったストレート・プレイは無理っぽいですね。ストレートを演出するとすれば、今後とも出演者はアマチュア限定ということになりそうです。