橋下徹を批判する人々の底の浅さについて。


SAPIO誌上で小林よしのりと中野剛志が対談形式で橋下徹を批判し、橋下市長がツイッターで強く反発している。「口だけで何もしない連中」ってな具合で、例の調子で、面白い。件の対談を立ち読みしてみたが、保守思想としての徹底性がないとか何とか、イデオロギー面に限定した批判であり、市長にとって現下最大の課題である大阪都構想に対しては、何やら意味不明な嫌味が述べられるだけであり、この水準で「橋下批判」を気取られては、そりゃあ市長もガックリであろう。本当はSAPIOを買うつもりだったのだが、お目当ての対談が面白くないし、櫻井よし子が演説しているDVDがオマケで、このDVDを分別して捨てる手間が面倒なので、結局買わなかった。

それで、中野剛志は元官僚で現国立大学准教授でお気楽なものだ、これでまた官僚に復帰したら何をかいわんや……と、市長が絶好調の反批判を繰り広げている次第である。私は、中野のTPP反対論には賛同するが、彼がフジテレビ「とくダネ!」で、自意識過剰な感じでブチギレてみせたのは評価していない。本気で反TPPの論陣を張るつもりがあるならば、あんなふうに「アブない奴」を気取るべきではなく、宮崎哲弥程度には常識人ぶりをアピールし、マスメディアに継続的に登場すべきだし、その上で少しずつシンパを増やし、政界とも連携しながら、徹底的に戦ってもらいたかった。新書などいくら出しても、何にもならない。彼個人の商売が潤うだけではないか。

同様に、市長が内田樹を「口だけで何もしないインテリ」「文句があるなら自分が前市長のブレーンだったときに、何でも実行すればよかったではないか」と罵倒しているのは、圧倒的に正しいと思う。大学のセンセイが橋下徹を批判したところで、よほど緻密な政策論を対案として提示しない限りは、この調子でやっつけられておしまいだろうし、そうなれば高学歴エリートをうさんくさく感じる庶民感情は、ますますもって市長を支持するだろう。インテリ諸君、これではマッチポンプだよ。

それでふと気づくのだが、どうやら知識人というのは、往々にして「政治家なんてみんな馬鹿だ、俺に任せればぜんぶうまくいくのに」と考えてしまう人種であるらしい。中野剛志には確かにそんな匂いがする。その点、政治家の実務能力に敬意を払う宮崎哲弥の方が、やっぱり言論人としてはプロなのだ。それにしても、この「政治ごとき俺にまかせろ」という知識人の傲慢は、いつどのようにして生まれたのだろう?

知識人が知識人としての立場から政治家に物申す、というのは、江藤淳や西尾幹二が保守論壇誌でよくやっていたなあ、と記憶する。もちろん、私がそれらに親しむより、もっと前からあったんだろう。福田恒存とか清水幾太郎とか、戦後いろいろ発言していたんだろう。それで、江藤や西尾の場合、あくまで「知識人として」発言するという、一線を守る流儀がしっかりしていたような気がする。だいたい、政治家がいかに馬鹿に見えようが、それは往々にしてマスコミが作り上げたイメージに過ぎないし、地元の有権者が彼を議会に送り込んでいる以上、一国一城の主であることに間違いはないわけだ。有権者の支持を得つつ、様々な利害関係を調整し、がんじがらめになりながらもよりマシな政策を実行するのが彼らの仕事であって、正論を述べて玉砕するのは彼らの仕事ではない。そんな政治家は必要ない。

さて、「知識人として」のわきまえを破った象徴的な人物をひとり挙げるとすれば、私は栗本慎一郎ではないかと思う。彼は、優れた経済人類学者であるにも関わらず、なぜか過剰に自己顕示欲の強い人で、有名なエピソードとしては「やめられないとまらない、かっぱえびせん」というコピーを作ったという話があるのだが、これも本人が披歴したエピソードだし、「もしも普通に就職していれば今頃は一部上場企業の経営者だ」なんて臆面もなく語っていたが、そう人前で公言してしまう時点で、経営者の才覚に欠けることは間違いがない。

そんなわけで「実務家としてもじゅうぶん優れているのに、あえて知識人をやっているオレ」というスタンスを誇示してきた栗本は、自民党大分裂に乗じて世田谷区で立候補し、みごと衆議院議員になったわけである。だが現実には、小沢一郎と決裂し、小泉純一郎と決裂し、体を壊し、選挙に負けて、政界を去った。彼なりに筋を通した結果ではあるんだろうが、政治家として何かひとつ事をなしたとは言えないままに終わってしまった。

で、こういう浮かれ方を指弾するのに、栗本ひとりを名指しにするのは気の毒なところがあって、よく考えてみれば、栗本を含めて、あの80年代ニュー・アカデミズムの面々は、「俺たちを象牙の塔の世間知らずと思うなよ」と、無責任に言い散らかしていたような気がするのである。江藤や西尾はそんな言い方はしていなかった。あくまで「政治や経済については素人だが、文学者だからこそ言えることもある」という倫理と矜持を貫いていた。松原正先生が「文学者だからこそ」フォークランド紛争の開戦を予想できた、なんてこともあったらしい(浅羽通明氏が著作で紹介していた)。対するに、己の能力を過信し、大言壮語していた知識人が、学問以外の実務に手を出してみたら、現実には何もできなかったり、火傷を負ったりするというのは、栗本慎一郎の政界進出とか、柄谷行人の社会運動とか、ニューアカ知識人に共通する病だという気がする。今また、やはりニューアカの旗手として知られた中沢新一がエコロジー運動へのコミットを表明しているが、これまでのパターンからして、きっと挫折するだろう。この面々の中では慎重な浅田彰ですら、田中康夫との対談シリーズで軽率にも実務家たちを罵倒し、「俺なら見事に解決してみせるけどね」的オーラをふりまいている。

どうもこの80年代あたりを境として「自分のあずかり知らない分野に対しては一定の敬意を払った上で、岡目八目を自覚しながらあえて言うべきことを言う」という知識人の流儀が崩れ、「ジャンルにこだわるなんてダサい、フットワーク軽く越境して、何についても好きなことを喋ればいい、だってオレ優秀だし」というモードが知識人の間に広がってしまったように思う。こうなると、海外だから文脈は異なるはずなのに、スラヴォイ・ジジェクが政治家をやったことがあるという話すら、「はいはいわかったわかった」と言いたくなってしまう。このような万能人を気取る自己顕示欲を利用され、昨今の知識人たちもまた、政府のナントカ審議委員の類をほいほい引き受けて「ロビイスト」ごっこに耽り、霞が関にいいように利用されているのだろう。

今後、もし橋下徹を本気で批判したいなら、その人は、まずは己の専門とする職分をわきまえ、為政者の仕事に最大級の敬意を払った上で、それでもなお、日々税金を納める一市民として、批判すべきことは批判する、という流儀を身につけねばならない。そこをすっ飛ばして、ワイドショーのコメンテーター程度の認識で、為政者を馬鹿にし批判する輩は、一般大衆から底の浅さを見抜かれておしまいだろう。ワイマール期のドイツの知識人も、そんな感じだったのかもしれないね。