カンパニーじゃなくてプロデュースで公演を打つとなると、人材は寄せ集めになります。その場合、技術を共有して統一感を出すことはできるけど、思想を共有して一体感を出すことは難しい。しかし思想的一体感が欠落したものは、やっぱりただのコマーシャリズムにしか見えない。となるとプロデュース公演の場合、最初から、ある程度思想的な共通性があるとわかっている人に声をかける方が能率がいい、ということになりますね。まあでも本当の超一流の芸術家なら、たとえ短い稽古期間でも、技術だの思想だの面倒なことを言わなくたって、共鳴している感じが出せるのも事実ですな。あれは、技術を極めることがそのまま思想化しているというか、思想的葛藤を抜きにしてどんな技術も極めることはできないというか、「思想としての技術」ってのものが存在するんでしょう。もっともそんな超一流はごく少数だし、かといってここでいう「思想がある」ってのは「勉強が好き」ってこととは違う。そうすると、既にして生き方に思想が含まれているというか、「思想としての生き方」を実践しているというか、そういうタイプには、私なんか優先的に声をかけたくなりますね。

山崎正和の受け売りで言いますが、芸術ってのはそもそも、自己を表現することで自己を超克するという、パラドックスを孕んでいるんでしょうな。宗教的感情や政治的信条が、自己を超克する重要なモメントになりうるのもむべなるかな。逆に、宗教や政治といった思想的モメントを抜きにして、自己を超克するという営為が直感だけでできてしまう人は天才だと思うけど、普通は、自己愛の方が勝ってしまうんじゃないか。宗教や政治は無効だと考える現代思想的な立場では、宗教や政治のかわりに「他者」という概念を代入することが多いけど、これじゃあちょっと抽象的すぎるし、安易な「人それぞれ」ヒューマニズムに流れがちでもあるから、この立場に身を置く芸術家は、なんというか、脆弱に流れているような気がします。

それ以前に、ニヤニヤしながら自慢話するような輩は、芸術創造には向いていないと思うし、出るところに出れば自分はひとかどの人物として認められている、とか公言して憚らない輩は、もう体質がゴロツキ化しているという自覚を持つべきだと思うんですね。さんざん出てくるでしょう、ドストエフスキーの小説とか、チェーホフの戯曲とかに、そういう人。なぜ自分がその典型だって気づかないんでしょうね。そして、そういう人に限ってこの私に近寄ってくるのはなぜなのか。鬱陶しいから「あなたは芸術家には向いていないし、そもそも私はあなたのことを芸術家だとは思ってないですよ」って馬鹿正直に教えてあげると、だいたいそういう人は憤然として、後で悪口で返してきますね。私は別に悪口を言ったつもりはないんですが。

ただ難しいのは、これは近代以降の問題ですが、では職人に徹して、作品に含まれる自己性をできる限り消去してしまうと、これはこれで、芸術という範疇とは別物になってしまうわけですね(柳宗悦の「用の美」の評価が難しいのは、こういう点に関してです)。「作者」の特権性を解体するポストモダンの徹底化が、プレモダンな伝統回帰に相似するのは当然といえば当然ですが、そもそもそれを芸術と呼んでいいのかどうか、どうも腑に落ちないところが残ります。というのは、ではこの「自己」という厄介なお荷物をどう処理すればいいのかという問題が、一足飛びに超えられてしまっていて、なんというか、作品の受け手としては、感嘆し憧れることはできるけれども、自分の人生の参考にすることは難しい。確かに、そんなふうに「解脱」できればいいなあと思うんだけど、そもそもそう簡単に「解脱」できないから、近代の人間は苦しんでいるわけで、話は元に戻ってしまう。そこで改めて顧みるに、例えば近代哲学は、「自己」にこだわりながら、論理的思考に従い「自己」を超えるプログラムだと言ってもいいでしょう。カントにしたってヘーゲルにしたって、あるいはニーチェやキルケゴールやマルクスですら、そう総括できるでしょう。で、同じく近代芸術は、時に宗教を目的としたり、時に政治を目的としたりしながら、やりかたは人それぞれなんだけど、いずれにせよ、「自己」に発しながら「自己」を超えるプロセスを、作品の中に痕跡としてとどめることで、私たちになんらかの導きの糸を与えてくれているんじゃないか。それが、近代芸術の存在意義なのかなあと思います。

神奈川県立近代美術館・葉山でやっている「ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト」展に行きましたが、いちばん驚いたのは「神の顔」と題した作品があったことです。ユダヤ人である彼が、偶像崇拝の禁止を踏み越えて、あえてアルカイックなイメージで「神の顔」を描いている。そしてそれは、もちろん人の顔に似ちゃっている。岡本太郎っぽい、イイ顔なんですな。うまく言えないんだけど、この感じだよなあ、これが原点だよなあ、と感じました。