プロとは何かといったら、もちろん、お金をもらって仕事をしているのがプロだろう。さらに、例えば舞台なら舞台だけで食えるようになれば、なおのことプロである。

私の場合、もともと舞台のプロになろうとは思っていなかった。むしろ、プロとしてやることを軽蔑すらしていた。なぜって、そうなると資本主義の犬だから(笑)。資本主義を批判するために、プロフェッショナリズムの圏外に身を置くべきだとすら思っていた。しかし、果たして実力を伴っていたかどうかはわからないが、20代なかばくらいからだんだんお金をもらえるようになり、30歳を過ぎてからは、基本的に発注に従って、仕事として演出やら講師やらワークショップ・ファシリテーターやらをやり続けてきた。思想的にも、色々変遷あって、左翼的スタンスからは転向した。

来年で、私の舞台人生は20年に達する。現在は、舞台を仕事としてやって、ギリギリ食えるようにはなっている。ギリギリではさすがにおっかないので、予備校講師という副業も手放してはないけれども、まあ一応舞台に関しては、プロの範疇に入る形で働いている。私にできることは何でも引き受けているが、最近は特に、演出や劇作を依頼されることが多い。当然ながら、まずクライアントありきの仕事である。クライアントの要望を満たしつつ、その期待を超えるレベルの成果を上げることが、毎回目標になっている。本当に、庵野秀明ではないが、サービスサービス!である。

当たり前だが、アマの仕事とプロの仕事は違う。アマは失敗が許されるが、プロは基本的に失敗してはならない。必ず成果を上げねばならない。成果というのは、集客の数も、観客の反応も、クライアントがそれによって得られる満足度も含まれるが、ベストはその仕事が次につながることだろう。単なる打ち上げ花火で終わらず、仕事としての継続性が生まれれば、それこそ成果が上がったことになる。そのためには、観客層をしっかり把握するということが第一歩である。東京では、何をやっても芸術おたく演劇おたくしか集まらなかったりするが、地方はそうではない。だからといって、観客を単に「専門的な理解を欠いた人々」と規定するのも片手落ちである。「通にわかってもらえればいい」という方針と同様に、「誰にでもわかりやすく」という方針に魅力が乏しいのは、そのせいだ。観客も生活者であるからには、何かのプロ、何かの専門家ではあるわけで、それぞれの生き方や働き方に応じた、物の見方や考え方がある。そこを尊重して、観客が潜在的にモヤモヤと気づきつつあることを、舞台を媒介として顕在化させ、彼らの現実認識を一歩引き上げることが、創作の基本に据えられねばならない。そのためには、観客層を正しく想定し、観客層に寄り添いながら、観客層の予期せぬ要素を導入するという工夫が必要である。わかりやすく言えば、半歩だけ人々の先を行く、ということかもしれない。そのためには、仕事を離れたところで、色々な職種の人々と交流することが、なによりの早道だと思われる。私の場合は、副業で予備校講師をやったりして、様々な若者と交流していることが強みになっている。日本各地で、お酒がきっかけで人と知り合うことも多々ある。

静岡で働き始めて6年目だが、静岡に来てからようやく私の仕事も、以上の意味でのプロらしさを備えるようになってきた。クライアントの要望に応えることがコンスタントに実現できるようになると、次に課題となるのは、作品のクオリティを維持することだ。こういう稼業の場合、問題になりがちなのは、経費をいくらまで認めてもらえるかである。報酬に関しては、ただでさえ不景気なこの状況で、注文をつけることなどほとんどありえない。いただけるだけでありがたいと思っている。だが経費に関しては、削れば削るほど作品のクオリティを下げることになるので、無制限に妥協すればいいというものではない。作品を守ることができるのはクリエーターだけであり、そのクオリティを下げれば、当然ながら期待したほどの成果が上がらないということもありうる。ただもちろん「こんなに経費がかさむなら次からよそに発注しよう」と判断されてしまっては元も子もない。いくらかければ何が実現できるかをしっかり説明したうえで、その結果に対して、クライアントに納得してもらうことが大事だ。逆に、経費を極力ゼロに近づけたいと考えるようなクライアントとは、どのみち長いおつきあいはできないのだから、その手の現場は早く卒業するに限る。場合によっては、こちらからすっぱりお断りする強さも必要だと思う。

かくして、クライアントの要望を実現し、作品のクオリティを守り、そのうえでようやく花開くのがオリジナリティである。これは、私の現在の課題である。以前に比べて、最近はクライアントから「君のことは信頼しているから、今回は何でも好きにやってくれ」と依頼されることが増えてきた。「企画立案の段階から手伝ってくれ」という依頼も多い。文化芸術の領域では、このように仕事のレベルが上昇すると、当然ながら、カジュアルではなくてフォーマルな雰囲気の現場に入ることも増えてくる。そうなると、誰が見てもそれなりに「凄い」と思えるような荘重さを演出することがミッションに加わりもする。当然ながら、教養が不足していれば商売が成り立たない。文化芸術に関する幅広い教養と見識と審美眼をベースとしたうえで、オリジナルのアイデアを構想するというのが、ここで必要になる姿勢だ。本業とは別に、それなりに詳しいジャンルがいくつかあった方がよい。これはもう、若いころからの蓄積ということになるだろう。「人生勉強」を含め、常に勉強を怠らぬよう努力するしかない。

私の場合、商売にする以前の作品には、それなりに強烈なオリジナリティが備わっていたが、自己満足で終わってしまうことも多かった。商売にし始めてからは、今度は要望に応じるだけで精一杯になってしまい、作品としては却って及第点を与えられないものが多かった。最近はようやく、要望に応えたうえで好きなことをやる余裕が生じており、私の作品に備わるオリジナリティは、以前とは違ってそれなりに鍛えられたものになってきていると思う。これからの自分の課題のひとつは、このような私の創作の軌跡を、面白いと思ってくれるコアなファンを育てることかな、と考える今日この頃である。