真面目に働く日々であるが、細々とした事務作業は苦手で、各方面で仕事を滞らせてしまっている。しかし、これもおそらく今年度いっぱいのことだ。来年は仕事を整理するので、今年ほどには他人様に迷惑をかけずに済む……はずである。

しかし来年、自分の仕事の中で演劇に関わる割合を増やすとなると、そこでどんな夢を描くかという難題にぶつかってしまう。私は私なりに、日本の観客の生理というものを意識してはいて、ここ数年フリー演出家として仕事をする際には、必要最低限の観客を動員できる仕掛けを考えてきた。その都度現場の要求には応えつつ、でもやっぱり観客に媚びるのは嫌なので、かなり超然とした姿勢を保持してきた一面もあり、このややこしいスタンス故に、商品劇場時代とは異なり、私の仕事を追い続ける観客は(ごく親しい友人たちを例外として)いなくなってしまった。

にも関わらず、これから私は、これまでと比べてもう一歩演劇というジャンルに深く関わろうとしており、かつ、若い人たちと新しい活動を始めようと考えてもいる。全てが計画通りにいけば、1~2年以内に著作を世に問うことにもなるだろう。もっとも、そこで自分の存在を強く世間にアピールしたいなどというエゴに突き動かされているつもりはない。だいいち、生来私には主体性なるものが不足しており、ただ「お祭り好き」であるから面白そうな現場を飛び回ってきたというだけのことだ。これからもそれは同じだろう。いや確かに20代の前半までは、有名になってみたいという気持ちがなくはなかったが、しかしそのときだって自分のエゴよりも、イデオロギーに由来する判断と行動を優先させるべきだと考えていたし、また舞台の世界の裏の裏まで覗いてしまった今となっては、もう幻想を抱く余地は微塵も残っていない。準芸能人のようなスタンスで働いている演出家の仕事ぶりを間近で眺めたところで、羨望の念など湧いてもこない。「そこまでして芝居がやりたいのかね」と驚き呆れるばかりである。

ただし、かといって、「売れっ子なんて下らない、自分のやっていることこそ真の芸術だ」などと嘯いて、三流の業界人として40代に突入することだけは、私の人生の美学が許さない。演劇業界にコミットすることで己の能力の低さをごまかし、「演劇人」というアイデンティティを勝手に拵えて、そのぶん過剰に業界のヒエラルキーを強調し、偉そうに先輩面する馬鹿どもが多過ぎる。それなりに名前が売れている御仁ですらこのタイプだったりするから、ウンザリである。あれらと同類に見られる位なら、演劇など潔く捨ててしまう覚悟はある。予備校講師としてカネを稼ぐさ。

従って、これからも芝居を続けるなら、腐れ業界人と同一視されずに済む程度には「一目置かれる」存在ではありたいと思う。私が尊敬してやまぬ先輩たちは、業界とは一線を画しつつ、何はともあれ「一目置かれる」ことに成功した人々である(誤解されては困るが、「自分はメインストリームに属していない」ということを、わざわざ強調する中堅の業界人たちがいる。そういう輩に限ってずぶずぶの業界人である。私が模範と仰いでいるのは、あいつらではない)。

だが、本当に大切なことは、どんなスタンスを取るにせよ、そこでどのような展望を切り開くかである。実はそこで迷いに迷っている今日この頃である。9月2日の加古君のコメントにもあったが、ただ即自的に観客の感性に寄り添うようなことは、私はしたくないのである。かと言って、欧米の現代演劇の手法をそのままこの国で展開したところで、何のインパクトも発揮できないことはわかり切っている。となると、いったい、何をやればいいのか。この自問自答の堂々巡りを、私はもう5~6年の間繰り返しており、そして、未だに何の答えも見出すことができていない。「何をやってはいけないか」なら、おぼろげながらわかってきた。だが「何をやるべきか」は、輪郭すらつかめていないのが正直なところである。何の答えも出せぬまま、これからまた5年10年と歳月が過ぎていくばかりなら、私は腐れ業界人にすら劣る、ただの「うざいおやじ」で終わるだろう。それなら、やっぱり演劇は捨ててしまった方がよい。

この話はまだ続く。