近代芸術を克服する試みの限界について。


ピン・チョンからリミニ・プロトコルに至る、既に手法として定着した感のあるドキュメンタリー演劇の問題点は何か。前回のエントリーを引き継いだ文脈で言うと、それは、自己を表現しながら自己を超克するという、近代芸術の本質をなすパラドックスを安易に消去し、無名者の共同体をポジティブに浮上させ、ルソーの演劇批判を無自覚に踏襲してしまっているところでしょうな。演劇などという模倣行為は青年を堕落させる。逆に、凱旋した兵士たちが銃後の少女たちと手に手をとって踊るのは結構である。個体と全体が無媒介に融合する「一般意思」のユートピア。この発想は、ラスキンやモリスの民衆芸術論、宮澤賢治の農民芸術論、柳宗悦の民芸論などに通じている。マルクス、エンゲルスが「空想的社会主義」と罵倒したものの眷族ですな。現代のドキュメンタリー演劇もその末裔と見えます。ひょっとすると、欧米の演劇人の知的レベルは落ちてきているのかもしれませんし、ともすると「現代口語演劇」にも、この範疇に入りかねない危うさを感じます。

ここで、ちょっと文脈が違いますが、故・廣松渉が、ポスト構造主義思想を「イギリス経験論の焼き直しに過ぎない」と一蹴したことが思い出されます。ポスコロ、カルスタ、あるいはフェミニズムまで、政治的に正しいもの(PC)は、いずれも「イギリス経験論の焼き直し」かもしれません。概念化の暴力を免れる個体を並べ立てたところで、それがどうした、ということですね。

さて、先のジョン・ラスキンという人物は、いわゆる陰謀史観の中では、悪名高き秘密結社「円卓会議」の思想的源流とされる、英国流エリート主義の世界化を叫んだオックスフォード演説で知られているようです。アーノルド・トインビーもラスキンを崇拝していました。そのトインビーが設立したトインビー・ホールはセツルメントの先駆けで、さらに、シカゴのセツルメントであるハルハウスから出てきたのが、インプロ指導者のヴァイオラ・スポーリンです。「ワークショップ」という教育・学習方法も、おそらくはこのあたりから派生してきた一面を持ちます。根底には、やはり英国由来のノブレス・オブリージュがあるのかもしれません。つまり、支配階級による柔軟な統治と、被支配階級による自発的な服従が、20世紀に規範化された「民主主義」の実態だったということでしょう。この点で、帝国主義も共産主義も、思想的系譜をたどれば双子に過ぎないのかもしれません。仲正昌樹氏を真似て言えば、そこでは、「仮面」としてのペルソナを介した演劇的な社交術は「偽善的」として退けられ、「生き生きとした」パーソナリティが「本音」を語り合うコミュニケーションが称揚されるわけです。

しかしよく考えてみれば、人間は、自己について語るときですら、我知らず物語を作ってしまう。自己もまた、仮面を被った自己によって演じられるものですね。この一事をもってしても、疎外された「素朴な」「生き生きとした」「本音」を取り戻す、という発想のうさんくささが知れようものです。

長年ワークショップ・ファシリテーターとして働いてきた私としては、あまりこういう話ははっきり書きたくないのですが、思想転換を迫られている今日この頃ではあります。そこで、近代芸術のドクトリンをきちんと踏まえようという今年の方針に従い、近代芸術を克服したかのように見える試みを批判してみました。これはもちろん、いくらか自己批判を意味してもおります。