昨日、佐伯隆幸教授最終講義『演劇人佐伯隆幸とは誰なのか』を聴きに、高速バスの日帰りで、学習院大学へ行ってきました。

大教室に大勢の聴衆が集まっており、もちろん多くは大学の先生や教え子さんたちでしたが、佐藤信氏、流山児祥氏、清水唯史氏、佐々木治己氏といった演劇人も来ていました。あえて言いますが、こういう場に駆けつけられる人が、やっぱり本当の演劇人なんじゃないですかね。「佐伯隆幸とは誰なのか」を知らない若者たちが「芝居やってます」とにこやかに自称すること自体、何か根本的に間違っていると私は思います。

もっとも、私にとって佐伯さんは佐伯さんであって「教授」だとは思っていないので、いくら最終講義でも、演題が『フランス現代演劇のどーたらこーたら』となっていたら聴きに行かなかったと思います。が、なにしろ『演劇人佐伯隆幸とは誰なのか』ですから、これは聴かねば、と思った次第でありました。

内容を私の言葉に置き換えると、こんな感じ。

 

佐伯隆幸とは誰なのかと問うても「わからない」。なぜ「わからない」か。例えば自分の名前をいくら分解し分析してみたところで、名前は与えられたものに過ぎず、この私の固有性をいささかも証明しない。この私が、身体を持って現に存在していることは疑いえないが、にも関わらず、自分の存在を証明するものなど何ひとつ見当たらない。サルトルを模して言えば、存在しているにも関わらず無である。あるいは、無として存在している。人間は、正体をさらそうにも、己の正体なるものをポジティブに示すことはできない。ただ、正体を隠すことによって露にしている、とは言える。ここに逆説がある。

同じように、演劇の本質は虚構の物語を演ずることによって己を示す逆説にあり、「正体がバレないという正体」を露にすることが最高の鞍部である。ただしそのためには、役を演ずる以前に、演劇人である自己が存在していなければならない。演ずる以前の存在とは何かと考えると、それは身体であり、魂である、とでも言うしかない。ところが、日本の現代演劇は滑稽なことに、この肝心な演劇人としての魂を欠いている。なるほど、虚構はいくらでも演じられるだろう。そもそも現代社会においては、演劇をはるかに凌駕して、誰もが役割を演ずるばかりである。例えば昨今は、労働すること即ち「企業に入ること」だそうだが、しかし労働することとは本来、野放図に生きていたい人間が、食うために渋々選ぶ道ではないのか。

かくまでも現代は何もかも「仕掛け」に満ちており、演劇もまた虚構の「仕掛け」である。今日は革命家を演じた役者が、明日は憲兵を演じられる。しかし、本当にそんなことがありうるのか。だとすると、むしろ役者という存在を疑ってかかるべきではないか。世界の関係を変容させようと決意した者がまず存在していて、芸や才能はその次だろう。最初から芸や才能によって、虚構の物語、虚構の仕掛けを器用に演じたいというのなら、さっさと舞台を去り、テレビにでも芸能界にでも行けばよい。「等身大」なくして「千変万化」は成立しないのだから。結局、自分が求めてきたのは「真剣にふざける」ことである。「ふざける」ためには「真剣」でなければならないのだ。

だいたい以上のような内容を、ユーゴーとコルテスのテクストを素材としながら、話されました。そして講義の最後には「大岡、やれ!」という激励の言葉を頂戴する一幕もあったりして。「やれ!」ってアジテーションも、なんかブントっぽいなあと思いましたが(笑)。

この内容については、全面的に共感しますし、私自身が演劇を選択した出発点を改めて想起させられました。ただ、一個人としてならば「演劇人であること」は成り立つけれども、集団として成り立たせることは至難の業だと言わざるを得ないですね。築地小劇場に参集した新劇人たちや、60年代のアングラ第一世代はそうだったのかもしれませんけれども、現在において「世界の関係を変容させること」を動機として芝居をやる人なんて、ほとんど存在しないわけで。そんな動機を抱いている人は、それこそ、この最終講義に来ていたと思うんですね……。

ともあれ、佐伯さんの考え方でいけば、演劇をやるうえでプロかアマかという違いは問題ではなくなる、というか、プロもアマもない、ただ演劇人とエセ演劇人がいるだけだ、ということになりそうです。プロを自称するエセ演劇人への反発から、私はアマチュア演劇に接近しましたけれど、かといってリミニ・プロトコルのような自己表現スタイルでは、これまた演ずることに内在する「正体を隠すことで露にする」パラドクスが消去されてしまう気がします。最近私もだんだんワークショップ礼賛論者ではなくなっているんですが、その理由はこのあたりにあるのかもしれない、と気づかされました。

佐伯さんの言いたいことはわかる。その志を継承するにやぶさかではない。しかし、具体的には何をすればいいのか。そこで立ち止まってしまう大岡でありました。