菅・小沢の新宿西口の立会演説会の動画を見ましたが、政策の内容からすれば小沢圧勝ですね。「格差是正」と「景気回復」を言っていますから。菅総理が言った積極的な政策は「雇用」だけで(ただし具体策はなし)、「後は予算編成を見ろ」と。この人やる気ないんじゃないか、という中身のなさですな。もう街頭でのアピールはどうでもいいから、米国筋・財務官僚・検察官僚・マスコミによる小沢総攻撃に期待しているんでしょう。ネガティブ・キャンペーンに頼るあたり、自民党に似てきましたな。その急先鋒だか何だか知りませんが、松田光世って人は本当に鬱陶しいですね。お前は院外団のヤクザか!

どっちが勝つか、私の予感だけで言えば、小沢さんが勝っちゃうと思います。勝機を呼び込む人には独特のオーラがあります。川勝平太という人がそうでした。静岡県知事選の折に2度顔を合わせる機会がありましたが、直感的に「これは勝つな」と感じました。小沢さんにもそういうオーラがあります。菅陣営は、ネガキャンでいくなら、何か切り札を出さないと。でも、院外団にツイッターでペラペラ喋らせてるようじゃ、駄目なんじゃないの……。

さて、岡山の戯曲講座から帰って参りました。今回は、つかこうへい『熱海殺人事件』太田省吾『小町風伝』を読みました。猛烈なスピードで進行する『熱海』と、非常にゆっくり進行する『小町』と、対照的で面白かったです。参加者には『熱海』の方がウケてましたが、まあそうでしょう。70年代の社会状況と心象風景を共々わしづかみにしているのはつかさんの方で、それと比べると太田さんはやっぱり舞踏とアングラの系譜に則っており、ただその割には政治性を引き算して心情と身体だけを残しているので、美しく幻想的で芸術的ではあるんだけど、60年代のアングラ演劇に比べればスケールダウンしているという気がしてします。もっともつかさんも、良かったのは70年代80年代で、それ以降には見るべきものがないんじゃないでしょうか……。

しかし、太田さんという人が魅力的な演技方法を生み出したことは事実であり、しかも、その方法を確立するまでに10年近い時間が必要だったということは、ここで特筆しておくべきかと思います。演出家が、俳優の演技スタイルを独自のものとして確立するには、そのくらいの時間がかかって当然だと私は思いますね。忠さんや唐さん、寺山さんや信さんが自分のスタイルを作るのにさして長い期間を要しなかったのは、時代状況の追い風があったからで、そのような追い風がない今、ジャーナリストや研究者や批評家から「一刻も早く自分のスタイルを確立せよ!」と煽られるのは、演出家にとってはきついことだよなあと思います(私自身、何度もこういうフレーズで罵倒されました)。だって、目新しいものって、消費され飽きられ捨てられるのも早いでしょう。消費文化のサイクルに巻き込まれると、じっくり作品を創造する余裕はなくなり、矢継ぎ早に新機軸を打ち出していかねばなりませんので、これは俳優にとって非常に適応しづらい状況に陥ります。従って、最近売れる若手が演出家と劇作家を兼ねており、劇作家として常に目新しいことを表現し続けねばならず、そのぶん演出家として俳優集団を育てる仕事は手薄にならざるをえず、気がつけばひとりでもできる小説家へとシフトしていることには、必然性があると思いますね。そりゃまあ、ひとりになっちゃえば食える人は食えますよ。これを私は、かつて演劇人のFA化と呼んだんですが、間違ってなかったでしょう。ただ、自分が抱えている俳優をプロへと育て上げるという課題を放棄してしまうなら、演出家を名乗る資格はないんじゃないの、と思います。もちろん俳優の場合、何をもってプロと呼ぶかは、議論に値する問題ではありますが。

演出家や劇作家が描くビジョンを、俳優の身体に落とし込むには時間がかかります。1作2作でどうこうしようったって、うまくいくわけがありませんし、それ以前に継続的に稽古できる環境を確保するのが、まずもって大変な労力を要します。だいたいの劇団はもう、この環境を確保する段階で挫折しているでしょう。そう考えると、太田省吾という人の粘り強さには学ぶところが多いと思いました。

まあ演劇って、近世社会では王侯貴族の前で上演されるものでしたからね。現代でも、お金をくれる人を楽しませるという課題に集中すれば生き残れるはずで、そういう意味で「二元の道」って言い方はよくわからない。というか、自分のやっていることが「二元の道」に引き裂かれていると自覚されているうちは、本当のプロじゃないのかもしれません。そう考えると、「お客が来るかどうかが全てだ」って言ったのはルイ・ジューヴェだったか、非常に含蓄のある言葉だという気がしてきます。お客を楽しませると一口に言っても、状況は刻一刻と変化しており、それに応じてお客が何を楽しいと感じるかも変化しますね。東京で売れっ子になっている人たちは、そういう嗜好の変化に敏感な才能の持ち主なのでしょう。

一方、私の場合はハイスピードで世の中をキャッチアップする才能たちとは無縁の場にいますが、それでも私なりに静岡の観客と向き合って仕事をしているつもりではあり、そのおかげでなんとか生き残れているのかな、と思います。私は、観客にもポテンシャルってものがあるように感じますね。で、そういう観客の最良の部分を引き出すってのが、舞台から観客に対する働きかけとして、できることなんじゃないかと。かくして舞台と観客と、互いのポテンシャルが互いを促進してうまく噛み合えば、これを成功作と呼ぶのでしょう。少なくとも私にとっては、エンタテインメントってそういうものですね。観客の最良のポテンシャルっていうのは、感性的な嗜好よりもいちだん深いレベルに位置していて、万古不易ってことはないだろうけど、まあ時代状況の変化にはあんまり左右されないんじゃないかと思うんです。そこに火をつけるのが舞台人としての役割かなあなんて、最近は思います。ブレヒトは、この観客のポテンシャルを「理性」と呼ぶわけですが、果たしてそれが「理性」なのかどうかはよくわかりません。ブレヒトがマルクスではなくフロイトと出会っていたら、もっと面白い仮説が生まれたかもしれませんね。

こういうことに気づくのにも、20年近い時間がかかりました。