Shizuoka春の芸術祭2010も、気づいてみればあと1週でおしまいなのですね。今年も世界の最先端の名作に数々出会い、非常に大きな刺激を受けております。関係各位お疲れ様です。大岡は今週末は、NPO法人アートファームの講座現代日本の名作戯曲を読む Vol.3」の講師を務めるべく、岡山に赴いておりました。この講座も早いもので3年目です。桐朋を辞めたので、大岡が戦後演劇史についてじっくり語るのはついにこの講座だけとなりました。今年は1970年代の戯曲ということで、まずは内田栄一『ハマナス少女戦争』佐藤信『嗚呼鼠小僧次郎吉』を扱いました。

内田栄一のリリシズムは、今読んでも古びていない気がします。今回のために、彼が脚本を担当した藤田敏八監督『スローなブギにしてくれ』も観てみたんですが、規範や制度や秩序からすりぬけて、傷つきながらもしぶとく生きていく女の子のバイタリティ(と、家父長制の自滅)がやはり主題となっていて、面白かったです。学生運動が退潮しミーイズムが広がった70年代を象徴する作品は、私は『宇宙戦艦ヤマト』だと考えていまして、あれは男の子たちの連帯感が、母胎回帰の力学にからめとられてゆく話だと私は解釈しているんですが。わかりやすく言えば、大学紛争で勝利したのは結局キャラメル・ママだったということですが(笑)。男の子たちが安直に「成熟」という名の迎合を果たし、母性的な役割を背負った女たちがこれを「包容」するとして、そうすると、この母子相姦的な柔構造から逃走しうるのは、少女だけだということになるのでしょう。あてがわれた役割(=ハマナスである)に満足せず、ただ生理の赴くままに、行為に行為を重ねて走り続ける(=ハマナスする)、「萌え」の対極に位置する少女たちですな。

信さんの『嗚呼鼠小僧次郎吉』は、断片化されたイメージをさらにシャッフルして、散文的な理解を徹底的に破壊したうえで、救済を待望する幻想(とその挫折)を浮かび上がらせる手腕たるや、やはり天才的だと思いました。なにしろ、アルマンとの再会を恋い焦がれる椿姫、シンデレラの王子よろしく「赤い靴」の持ち主を探す異人さん、そして決起の時を迎える青年将校の姿をした鼠小僧次郎吉がクロスオーバーしながら、最後には全登場人物が蝋人形と化してしまう、とんでもないお話なのです。解説としては、ユダヤ・キリスト教の終末観とマルクス・レーニン主義の歴史観の共通性を改めて確認し、ついでにキリスト教の世界宗教化にあたってヨハネ黙示録が果たした役割を、D・H・ロレンスや吉本隆明、遡ってニーチェのキリスト教批判を参照しながら説明し、メシア待望論が理解できないとベケットの『ゴドーを待ちながら』がなぜあれほど人気を博したかは説明がつかないという話に進み、最後に、ベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」における革命観(過去に堆積したゴミの山こそが救済者と融合する、というイメージ)が、佐藤信の革命観に最も近いものだろうと締め括りました。

内田栄一にしても佐藤信にしても、戯曲を読んでいて、その背後に集団のポテンシャルの高さを感じますね。こういう攻撃的な戯曲に心のどこかで共感し、上演を成立させる集団の力というのは、今の演劇界からは失われて久しいものでしょう。

ところで、戦後戯曲の数々を読んでいるうちに、私も久々に戯曲を書いてみたくなってきました。ただ私の場合は、アングラ的に「近代」から逃走したり「近代」を破壊したりすることには共感していなくて、理念的には、最近は竹田青嗣さんの近代国家論に説得力を感じているのですな。これから月見の里学遊館で『トゥリーモニシャ』というオペラの制作に入るので、とりあえずテーマ的にはちょうどいいんですけど、ただ、そういう理念が本質的に、作品を創造するという行為と整合性があるのかどうかは、まだよくわからないというのが正直なところです。