静岡県立美術館 「グループ『幻触』と石子順造」展 関連企画
平成25年度「むすびじゅつ」静岡の芸術文化を掘り起こす共同事業
ハプニング劇『此処か彼方処か、はたまた何処か?』


KOKOKA

SPAC×地域劇団の俳優たちによるドリームチームが、
静岡発のハプニングを巻き起こす……か?!

このたび、静岡県立美術館で開催される展覧会「グループ『幻触』と石子順造」展にあわせ、ハプニング劇『此処か彼方処か、はたまた何処か?』を上演する。これは、美術・マンガ・演劇・映画・キッチュと、ジャンルを問わない批評活動を展開した評論家・石子順造が、かつて最大級の賛辞を寄せた芝居である。1967年、劇団「発見の会」の研究生公演として初演されたこの作品は、ビートルズの歌の数々を散りばめ、埴谷雄高、ランボー、中原中也らのテキストをコラージュし、混沌を混沌のままに叩きつけ、観客に新鮮な衝撃を与えた。この後、作者・上杉清文は、異能の作家として活躍を開始することになる。学生運動が高揚する騒然たる時代――1960年代において、「アンダーグラウンド」な芸術運動に潜在していた可能性を、今改めて取り戻す闘いに、SPAC×地域劇団の俳優たちが挑戦する。静岡発のハプニングを、見逃すな!!

作 上杉清文・内山豊三郎
演出 大岡淳(SPAC)
美術・舞台監督 渡辺亮史(劇団渡辺)
照明 木藤歩
音響 荒木まや
作曲 宇波拓
衣裳 清千草
映像 山田泰士
宣伝美術 山田泰士・岩渕竜子
ドラマトゥルグ 佐々木治己
演出助手 大石夢子
制作 一般社団法人 静岡アート支援機構

出演(五十音順)
絢(やぶれ金魚)
大内米治(SPAC)
大田夏子(劇団渡辺)
蔭山ひさ枝(劇団渡辺)
桐島聡(劇団らせん劇場)
武石守正(SPAC)
友田領太(劇団静火)
望月夏哉(静岡あくとねっと)
百名哲
山本実幸(SPAC)
横山央(SPAC)
渡邊清楓

映像出演 上杉清文

●日時
2014年
2月14日(金)19:00開演
2月15日(土)19:00開演
2月16日(日)15:00開演
開場は開演の30分前

●終演後トークセッション(聞き手=大岡淳)
2月14日 佐々木治己(劇作家)
2月15日 成相肇(東京ステーションギャラリー学芸員/基礎芸術)
2月16日 上杉清文(富士市本國寺住職/劇作家/福神研究所所長)

●料金:1,500円

●チケット:SPACチケットセンター 054-202-3399
オンラインでの御予約は、大岡淳 ookajunあっとgmail.com にお名前・日時・枚数をメールいただくだけでOKです。支払は当日清算でお願いします。

●会場:アトリエみるめ (静岡市駿河区寿町12-21 TEL 054-289-1161)

※東京・静岡間は、新幹線・在来線だけでなく、高速バスも運行しています。2月16日はマチネ公演につき、東京からの日帰りも可能です。往復4500円、片道3時間です。ぜひ御利用下さい。

SPACバス(2/15往路のみ、片道1000円、SPAC『真夏の夜の夢』15時開演に合わせて運行)
http://www.spac.or.jp/nonstopbus

渋谷新宿ライナー静岡号
http://www01.jrtbinm.co.jp/recommend/130208/shizuoka.html

新静岡新宿線(駿府ライナー)
http://www.justline.co.jp/kousoku/shinshizuoka_shinjuku.html

●主催:ふじのくに文化・芸術振興事業実行委員会、SPAC-静岡県舞台芸術センター

●支援:平成25年度文化庁地域と共働した美術館・歴史博物館活動支援事業

●お問い合わせ:SPAC-静岡県舞台芸術センター
〒422-8005 静岡県静岡市駿河区池田79-4
TEL.054-203-5730 FAX 054-203-5732
E-mail mail@spac.or.jp
SPAC公式サイト http://www.spac.or.jp
 

初演はもう40年何年も前のことなのでディテールの記憶はない。ただこんな芝居を書いたり演出したりするのは、とてつもないアホか大天才だと思った。恐らくその両方なのだろう。舞台上には、大半役者というにはあまりにもナチュラルな身体が並んで身を持て余していた。場所は、東京信濃町の千日谷会堂という仏教系施設の駐車場である。いわゆるアングラ(60年代演劇)系の舞台は、日本近代演劇(新劇)の規範を壊すことを共通の旗幟にしていたから、新劇にこだわる人には兎に角判りにくかったようだ。しかし、私は一応「アングラ」のはしくれだから、大概の舞台をそれなりに「理解」することはできた筈なのだが、コイツは客に、ザマアミロ、判るな、と挑発しているようであった。一瞬、これはそもそも芝居なのか?と思った。ただ、68年革命の効用とでもいうのだろうか、見ているうちに判ったのかどうかはともかく、次第にこの舞台と、感性の党派性とでもいうようなものを共有していったように記憶する。ラストで、舞台奥の外部を遮蔽していた幕が消えて、突如街の夜景が眼前に開けたときには、底抜けの解放感があった。時は移って、初演の頃たぶんまだ生まれていなかった演出家や俳優・スタッフによって、このテクストがどう解釈され、舞台化されるのか、ほとんど初演時には生れていなかった観客たちの感性と、それがどう交錯するのか好奇心をそそられずにはいない。

菅孝行(評論家)
 


学生演劇をやっているときに、観客のアンケートに「こういうの、アングロっていうんですか、暗くて、何言ってるのか分からない感じの」と書かれ、それ以降、アングロサクソン系が私の演劇だと思っていたが、その方も私も間違えていたようで、それは「アングラ」というものを指していたらしい。しかし、アングラというものだと訂正されても、アングラとアンゴラの区別もつかぬうっかり者にはなかなか分からない。演劇を続けていれば門前の小僧習わぬ経を読むとやらで、何かそれっぽくなってくるのかなと、特権的肉体に己の根拠を見出してみたり、その辺を睨みつけては骨の羽根を広げていた。ある日、発見の会の瓜生良介さんのお宅へ伺った。差し出されたお茶を疑い「これ、おしっこ入れた湯飲みですか?」と聞いたところ、「おしっこは自分のじゃないと意味ない」と、聞きたい答えと微妙にずれているとは思ったが、グイと飲み干し、更に尋ねた。「瓜生さんはアングラをどう考えているんですか?」「表に出ないことだね」と一言。その後は、花田清輝の話で盛り上がり、アングラとは舞台形式だけではなく、組織論なのだな、と一人合点をしていたときに、煙ばかりで何が何だか分からない舞台写真が気になった。つまりは、これが『此処か彼方処か、はたまた何処か?』の舞台写真。「この舞台は、僕にもちっとも分からなかったけど、発見の会で一番面白かった公演で、劇団の研究生たちがやったんだよ」とかなんとか言われると、そんな面白い公演の戯曲が出版もされず、再演もされず、語られることもない、しかも研究生たちだけの公演だったのかと、ドキドキやきもきとしていたが、そうだ、アングラは表に出ないことが一つの条件、なるほど然り、と思っていた。しかし、ついに、流出してしまった。戯曲が雑誌に載っていたらしい。アングラの条件から一つ外れているじゃないか、というのはむにゃむにゃとさせていただき、「何故、宣伝をしないのですか?」という私の愚問に、「宣伝なんかしなくても、アンテナ立ててる奴は来るもんだよ」と嘯いた発見の会の在り様を考えれば、『此処か彼方処か、はたまた何処か?』を宣伝なんぞしたくない、というのが本音だが、これを見よ、と言いたいのも本音ということで、アンゴラではない、何処か、静岡のみるめに、みなさんを集めたいとむにゃむにゃ思うわけです。

佐々木治己(劇作家)
 


本作が初演された1967年からすでに50年近く経過している。アングラ的なものの余波は今でも世の中に漂っているが、すっかり漂白されて無害だ。問題は、今まさに動いている、生きた現実に、いかに向き合うかではないのか。これを抜きにアングラなど成立しようもない。などと、1986年生まれのぼくが書けば笑われるだろうか。どちらかと言えば、革命なんて糞くらえ、保守本流でいきましょう、が信条の真人間になりたい方だ。なのに、どうして、このアナーキーでアホくさい、ヒップにケチャップ飛ばす類いのペダンチックな高速回転詩編にひかれるのか。チューンナップされる幻想を支えるのは車窓から眺める電信柱。飛び去る言葉の柱。これでもかと読者を混乱させておいて、一瞬焦点を結ぶ像の先で、この社会の現実をふるわせてしまうからだ。狂った政治家たちにカーマスートラを叩きつけ「蒸し風呂へ行け!」と叫びたくなる。「尼寺から出てこい!」と。気づけば真人間になれない者の叫びを代行している。代行? いや、ぼく自身の姿なのか…実に有害だ!

西川泰功(ライター、芸術批評誌「DARA DA MONDE」編集代表)
 


1968年は、誠に混乱の年として、20世紀の世界史に刻まれた。チェコスロヴァキアの変革運動「プラハの春」から幕を開け、金嬉老事件、ソンミ村虐殺事件、キング牧師暗殺、パリ五月革命、東大安田講堂占拠、ロバート・ケネディ上院議員暗殺など、国内外で歴史的事件が吹き荒れた年である。
本作の初演は、その前年。巨大な狂騒が巻き起こる寸前の、不気味な風を孕んだ年だった。この年、上杉清文と内山豊三郎の二人の若者は、時代の舳先に立ち、潮風の彼方にひそむ嵐の胎動を嗅ぎ取っていた。二人の青年の透徹した眼差しがとらえた、激動の予感。それが、ペダンティックかつダダイスティックな戯曲の中に、騒々しく投げ込まれている。
彼らの潮騒は、ビートルズだった。行き先の分からぬ、荒れた大海原にあって、そのビートだけが羅針盤となった。ロックは今も昔もキッズたちのものだ。彼らは時間の尺度を持たない。HelloとGoodbyeが同居する場所にいる。ゆえに美しい。眩しい。
空きビンに詰めて放流したのか、この書きなぐられた戯曲は、半世紀近くを経て静岡の地で発見された。タイトルは『此処か彼方処か、はたまた何処か?』。まるで波乱に抗うかのような、ツバを吐きかけるようなカオティックな戯曲。貝殻が失った海の音をその空洞に宿すように、消え残った潮騒(ビート)が、俳優たちの身を痺れさせたのだろう。SPACと地域劇団は、手をたずさえてこの劇を再演するという。彼らは、おそらく本能的に察知しているのだ。その嗅覚で、その皮膚で、その眼差しで、それが嵐を告げるものであることを。

三浦和広(日本美学研究所所長)
 


60年代半ばから70年代半ばにかけての学生の会話を飾った知的・文化的用語や人名が散りばめられ、こんなセリフ、舞台で喋ったらカッコいいと思う輩(私もその一人)が、少数とはいえ当時はかなりいたに違いないと思わせる何がなんだかよく分からない作品だ。40数年前に心の片隅に埋められ忘れられていたタイムカプセルが掘り出されたようでもあるし、となると団塊の世代近辺の人間にとっては、若返りはしないがその老いにぶつけられる逆玉手箱みたいな怖さもある。タイガースとビートルズの調べが、若い連中の身近に長髪とジーンズと同居していた時代の和洋折衷な味わいを時折漂わせる。だからかろうじてこれは同じ舞台なのだと信じられるのだけれど、全く整然となんかしてなくて、閉じ込められたくないって匂いが舞台や俳優たちに満ちて、はみ出し飛び出そうとしている。まさしく68年的な舞台だ。する、みる、関係ないなどと演劇への関わりや、お尻が青いかしわしわかの年齢も問わず、大きさ強さは人それぞれだろうけど、間違いなく一つの確かな記憶となる。そんな予感がする。掘り出した大岡さんに乾杯!!

都築はじめ(髙岡基/劇団らせん劇場代表 静岡県演劇協会副会長)
 


 関係者の役得で、一足早く、劇の一場面をのぞかせてもらった。とにかく、すがすがしく、楽しい。ストーリーがないことがかえって、役者たちが発する言葉や、仕草の一瞬を輝かせているように見えた。
 石子順造の言説に触発された、グループ「幻触」のメンバーたちが、「絵画論としての絵画」を作品化しようと格闘した時期と、まさに同じ年、当時二十代前半の、発見の会の若い研究生達が、制度としての演劇を、内側から解体しようと、体当たりで作ったという、伝説のあの作品。演出の大岡氏から、「グループ『幻触』と石子順造」展の関連企画として、本作を上演したいとの提案を受けた時、あまりに的を得た作品選択に、ぶるっと、身震いした。いよいよ、今週末。ビートルズの曲を聞きながら、現代版「ハプニング」を通しで体験できることを、心から待ち遠しく思っている。

川谷承子(静岡県立美術館 上席学芸員)
 


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