「終着駅アメリカ」を観る。


既にウェブ上のあちこちで的確な批評が語られているから、屋上屋を架すこともないだろう。私自身、舞台研究MLエウテルペで、既に簡単なコメントを残してある。

http://groups.yahoo.co.jp/group/euterpe-ts/message/440

ただエウテルペ主宰者の柳澤さんから、この中に記した、

「パロディというかキッチュというか、こういう表現を介してテネシー・ウィリアムズを上演すること自体が、ポスト冷戦、ポストモダン、ポストヒストリーという時代状況へのコメンタールとなっている。だから観ている側も、「なぜこういう演技なのか」がコンセプチュアルに把握できて、ニヤリとさせられるという感じでした。」

というコメントについて、もう少し詳しく説明するように求められたので、この点についてのみ書いておく。

これまで我々がヨーロッパの演劇を考える際、常識としてきたのは次のような認識だろう。「ヨーロッパ現代演劇は、過去の上演史を参照したうえで、新たな演出方法を考案する。従って、ただ観客の嗜好に従って演出を施しているだけの日本の現代演劇と違って、消費社会の動向に左右されない強固な文化的同一性=歴史性を刻印されている。」そして具体的には、それは古典戯曲の骨格と、現代社会を象徴する意匠との結合として表現されることが多いと考えて、だいたい間違いはなかった。ヨーロッパの現代演劇そのものが日本に輸入される機会はこれまで決して多くなかったとはいえ、オペラの新演出ならいくつも輸入されるから、それを観ていれば、しばしばそうしたヨーロッパ現代演劇のムードを感じとることができたわけである。

ところが今回のフォルクスビューネ公演、フランク・カストルフ演出「終着駅アメリカ」に関する限り、確かに「過去の上演史を参照する」手法がここでも採用されているのだけれど、一点大きく異なるのは、その「参照」という作業を施した痕跡が、あからさまに舞台上に露呈してしまっているということである。このことに、私は軽い驚きを感じた。原作がほとんどパロディ化された調子でユーモラスに捻じ曲げられたり、ポップ・ミュージックの多用によって原作にない現代的要素が導入されたり、といったふうに、原作に対して何が付け加えられたか、その継ぎ目が剥き出しになっているのである。それが一番はっきりわかるのは、ト書きの処理である。各場冒頭の舞台の設定を指示するト書きが、転換時に電光掲示によって観客の眼前にさらされるのだが、眼前の舞台はそのト書きとはかなり食い違った舞台へと転換しつつあるのを、観客は目撃してしまうのだ。かくして、原作戯曲を含めたあらゆる要素が、継ぎ目なく美的に統合されるのではなく、継ぎ目も露にキッチュにいっしょくたにされている。まるで美術におけるアッサンブラージュのようである。

過去の上演史を「参照」し、戯曲外の要素を「引用」しつつも、その「参照」や「引用」の継ぎ目を消去して「オリジナリティ」を形成するのが、「作者=主体」を軸とするモダニズムの精神であるとすれば、「参照」や「引用」の継ぎ目を暴露し、「オリジナリティ」の神話を解体し、作品とは「引用」の織物に他ならないという〈間テクスト性〉を明示するのは、「作者=主体」の死を宣告するポストモダニズムの精神である。なんだか書いていて80年代を想起し懐かしくなってしまうが、とにかくカストルフにとっての「参照」や「引用」は、まさにポストモダンな諧謔精神の表れであると言ってよい。そしてこれが肝心な点だが、俳優の演技もまた、「欲望という名の電車」が極端にデフォルメされ戯画化されたような造型となっている。原作を知る観客にはそれは余りに明白あり、「これはデフォルメであり戯画化である」というメタ情報を意識せずにはおれないのである。なんだかまるで、劇場で古典戯曲を演出し上演するというコンベンション自体が、パロディの対象となっているかのような風情である。80年代の日本の小劇場演劇シーンにおいても、確かにポストモダン的な諧謔精神が存在したことは否定できないが、その鉾先が、このように「古典戯曲の演出」という制度(表現形式)そのものにまで向かった例を、私は想起することができない。なるほど演劇におけるポストモダンとはこういうことだったのか、と今さらながら悟るところ大であった。そしてまた、ワレサ、連帯、ワルシャワ労働歌といったポーランド現代史に由来する記号群と、アラン・ドロン、ニコ、ルー・リードといったポップカルチャーを代表する記号群が不意に遭遇してしまう(おおなんと蓮實重彦的な物言いであろうか)ところで、この芝居における「アメリカ」とは、あらゆる情報が等価な記号として併置され消費される没歴史的=ポストモダン的な現代社会の謂であることに気がつくという次第である。

それにしても、この「アメリカ」の空虚さはどうだろう。舞台上に一回り小さな舞台をもう一つ作ったかのような、入れ子的な空間として白い部屋が作られており、なんとこの部屋は、おもむろに全体が後傾して小道具がガチャガチャと倒れ、登場人物が見えなくなってカタストロフィ=大団円を迎える。ポスト・ヒストリー=歴史の墓場としての「アメリカ」もまた、墓場行きとなるということか。ポストモダンの更なるポスト、墓場の墓場を予感させて、舞台は幕となる。といっても、実際に幕が降りるのではなく、電光掲示のト書きに「幕」という言葉が点滅するだけなのだが。

ところで、こういう演出の意義は、原作を知っている者にしか伝わらないのではないかと言われれば、それはそうかもしれない。ある程度リファレンスを共有しているという前提がなければ享受し切れないではないか、その意味では教養主義的=選良主義的な限界があるではないか、というのが、しばしばポストモダン芸術に浴びせられてきた批判である。私は、この芝居のように優れた作品の場合は、別に「参照」や「引用」の出典を知らずとも、混沌とした表象の乱舞を楽しむことはできるんじゃないかと常々考えてきた。しかし厄介なことに、日本の演劇批評家や研究者の多くは、この問いに対して「だから観客を啓蒙することが必要だ」と答えてしまうのである(最近の「アフタートーク」の流行はその反映であろう)。私なら、「日本の観客には、解読不能な記号を解読不能のままに楽しんでしまう精神の鷹揚さこそが必要だ」と答えるところだ。しかし、そういう鷹揚さこそが、知的劣等感を持たないブルジョアの特権なのだと言い返されてしまうと、もはや返す言葉を失ってしまう。だがさらに食い下がって、そう思うならブルジョアを打倒すればいいじゃないかと私は訴えるのだが、知的劣等感に苛まれる人々は、別にわかりにくいものを受け入れる精神の余裕など必要ない、それより、石原慎太郎のようにわかりやすい言葉で訴えかけてくれるリーダーが必要なのだと主張し、挙句の果てに、朝鮮人や支那人の悪口を言い始める始末である。年がら年中「啓蒙」の一本槍で答えを出した気でいられる批評家諸君や研究者諸君の楽天性は、全く羨ましい限りである。彼らは、演劇のことだけ考えていたら満足なんだろうな。私は演劇人だが、演劇のことなんて本当に小さな問題だとしか思っていない。一市民として考えるべきことは他にたくさんあると思っているから、演劇業界の人々とお喋りする折には、話題を選ぶのに苦労する次第である。