「エレファント」を観る。


DVDでガス・ヴァン・サント監督『エレファント』を鑑賞。

コロンバイン高校銃乱射事件の1日を、あざとい物語には仕立てず、ただ淡々と描写した意欲作。長回し、スローモーション、即興の会話など、実験的な手法を多く用いながらも、それが一つの世界観に見事に統合されている。とりわけ、登場人物たちが校舎内を歩いて移動する際の、日光に照らされた空間の感覚など、圧倒的なリアリティで迫ってくる。こうした手法によって描き出されるのは、アメリカの田舎の高校を覆う、息が詰まるような閉塞感・停滞感・倦怠感である。これには、日本の若者の多くが共感できるはずだ。三浦展の言う「ファスト風土化」と重ねて見ることも可能であろう。傑作である。

淡々とした日常の直中に、ふと暴力や狂気が浮かび上がってくるというのは、日本の監督たちも巧みに表現してきた主題ではある。相米慎二、北野武、石井隆、青山真治など、実験的な映画を作る監督の多くがこれに当てはまると思うが、ただし決定的に異なるのは、日本の方はどうにも湿っぽいのである。なぜか、演歌的な叙情性を入れないと映画が成立しないらしいのだ(『エレファント』に近いのは相米の『台風クラブ』だが、これも「傷つけあうことが青春」みたいな観念性が強すぎて、リアリティは全く感じられない)。これは演劇の場合も同じで、岩松了や宮沢章夫をはじめとして「静かな劇」の担い手とされる脚本家の多くが、やはり余分な叙情性を書き込んでしまうのである。私が「静かな劇」を認めないのは、これが一番の理由である。確かにアメリカ映画の場合もアメリカン・ニューシネマの作品群はそうした叙情性(この場合は、若者の挫折感や敗北感)を取り入れていたが、逆に言えば日本の映画は未だにアメリカン・ニューシネマやら松竹ヌーベルヴァーグやら、その段階にとどまっているということになる。この『エレファント』のような徹底して乾いたタッチの作品が生まれないのは、湿潤の風土に由来する日本の映画・演劇の宿痾なのだろうか。しかし、文学に限るなら例外も見つかるということは、堀切直人の『日本脱出』(思潮社)を読めばよくわかる。飽くまでも例外に過ぎないのではあるが。文学じゃないと無理か。映画で例外を挙げるとすれば、かろうじて山本政志という人が当てはまるような気もするけれど、どうだろう。

閑話休題。DVDのおまけ映像も面白く、10代の俳優たちは日々コロンバイン高校の事件についてディスカッションしながら撮影に臨んだこと、脚本は薄いシノプシスがあるだけで会話の内容のほとんどは即興でなされていること、また、俳優からの提案を監督が巧みに考慮していたことがわかる。主人公(?)のジョン・ロビンソンがインタビューにはきはきと答えているのを見てつくづく思ったのだが、日本の俳優はなぜ、こういう確固たる認識を持って役作りに挑むことができないのか。誰も彼もが、ディレクターからの指示と、自分の直感のようなものにだけ頼って演技を構築しているのが、日本の現場の実情ではないのか。いくらなんでも、もう少し主体性のある俳優がいてもいいんじゃないのか。プロの俳優であるためには、安定した技術を獲得して金を稼いでいるということよりも、客観的な社会認識を持っているということこそが第一の条件ではないかと、改めて考えさせられた。逆にアマチュアの俳優とは、自分が本業としている仕事(生産点)の利害を加味した社会認識を、表現の基礎に置いている人ということになるのではないか。

井筒和幸監督が「虎ノ門」で、「ぜんぜん突っ込みが足りないよ。なんでこういう事件が起きたのか、結局わからへんし。表面的。」と『エレファント』を切って捨てていたが、もちろん、画面(文字通りの「表面」だ)に満ち満ちている閉塞感・停滞感・倦怠感がその答えであることは明白である。脚本の言葉ではなく、なにより映像がそれを雄弁に語っているからこそ、この映画はカンヌでパルムドールを受賞したのだろう。このあたりが、井筒のおっさんの限界なんだなあ。しかし、つーことは、最近流行っているサブカルの魅力は悉く理解できていないってことじゃないか。大丈夫か、井筒。