センチメントを吐露する。


おかげさまで、無事に「秋風とピストル」の本番を終えることができました。御来場いただいた皆様に感謝申し上げます。

撤収後、湘南台に移動して焼肉食べ放題&カラオケという賑やかな打ち上げで、最後はみんなでメールアドレスを交換しておわかれしました。3年生のメンバーは、高校生活のしめくくりとして、なかなか贅沢な時間を過ごすことになったんじゃないでしょうか。

打ち上げでお喋りしていて改めて、この出演者諸君は本当にみんな可愛くて、かっこよくて、素敵な人たちだなあと痛感しました。自分が高校生だった頃を思い出すと、友だちはほとんどいないし、精神は不安定だし、発想は暗いし、周囲には反発しつつもやっぱり大学受験のプレッシャーは大きかったし……ということで、今だからこそ楽しくおつきあいできるけど、もしも高校時代の自分が彼らに会っていたら、憧憬と羨望と嫉妬の余り卒倒していたかもしれません。いや、高校時代の私であれば、たぶん彼らの魅力に気づくことすらできなかったでしょう。そう考えると、自分で自分の人生の振幅を狭めてきたことに嫌悪を覚えます。しかし今さら後悔してもどうしようもないので、私の場合30代になってようやく、立派な生活者に成長していくであろう人々と、気持ちの良いおつきあいができるようになったってことなのかな、と割り切ることにしています。少なくとも、業界人としかつきあいがない〈演劇おたく〉にならなかった(と、今なら断言できます。浅羽通明御大に感謝)ことについては、これまでの自分の人生を振り返って正しい選択であったとつくづく思います。教育の現場に演劇を持ち込むというのは、ここだけの話ですが本当は危険な試みです。しかし敢えてその危険な綱渡りを続けることが、今の私に課せられた仕事なんだろうと思います。こういうのは本業で挫折した人間がやる仕事だと思うこともありますが(事実そういう面はあるわけですが)、この「秋風とピストル」に関する限り、もっと積極的な仕事と言えるんじゃないかと胸を張りたい気もしています。

それにしても、演出家というのは不思議なポジションで、芝居の本番に対して、半分は当事者だけど、半分は傍観者なんですよね。芝居の全体を創造し、それを自ら見渡すことができるのと引き換えに、自分自身がその芝居に没入することは許されないというような。俳優で出演していれば別ですが。芝居を始めた頃に、ああそうか、演出家である以上、当事者としての充実感とは少しずれたところに立っているしかないんだと気がついて、いささか寂しい思いを抱きました。この感覚は毎回つきまとっています。出演してしまえばもっと無責任に楽しめるのですが、ただしこの場合、やはり演出的なフレームにもっと責任を負うべきだった、そうすればもっと良い作品になったのではないか、と後で反省するのが毎度のパターンではあります。

私は「相思相愛」ほど白々しい言葉はないと思っていて、恋情の本質とは一方通行の狂気だと考えますが(それが偶然に食い違わなければ「相思相愛」に見えるというだけで)、「半分は当事者・半分は傍観者」という私の舞台への関わりも、その本質は物狂おしい片思いなのかもしれません。今日は午前中に仕事を終えた後、何も手につかずぼーっとしていました。出演者諸君はきっと、元気にバイトか何かに精を出していることでしょう。「秋風とピストル」で、私の演出作品は通算20本に達しました。