大検予備校で、昨年8月に3日間実施した「声に出して戯曲を読む」ゼミが4コマ分未消化になっていたので、昨日今日と実施することとなった。

●第4日 ギリシア悲劇を体験する ~佐藤信「イスメネ」~

前半は、まずギリシア悲劇について概説。演劇の起源はギリシア悲劇と考えられるということ、本来はディオニュソス祭における歌と踊りであったこと、そこからダイアローグが独立して俳優とコロスの分割が生じたこと、アイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデスが三大悲劇詩人として知られていること、などなど。そして、ソフォクレスの「オイディプス王」および「アンティゴネー」の内容を説明した上で、「アンティゴネー」の冒頭、アンティゴネーとイスメーネーの対話を音読してもらう。さらにその続きとして、大岡演出「アンティゴネー」の一場面をビデオで鑑賞。

後半は、「アンティゴネー」の現代日本におけるアダプテーションの傑作として、佐藤信の「イスメネ」をキャスティングして音読。夏のゼミで「ゴドー」をやって、その後田舎に戻ったHさんが久々に顔を出してくれたので、主役イスメネをやってもらう。なかなか盛り上がったが、作品の背景となる情報をもっと事前に提供しておけば、さらに完成度が上がったかもしれない。

実技の授業で何度も使っている脚本だが、やる度に発見がある。今日は、姉に反抗者の役割を簒奪されてしまう妹イスメネが、余りにはかなく、無力な存在であることに気づかされた。これが初演された60年代中盤なら、この姉と妹の距離感は、60年安保に立ち会った世代とこれに遅れてきた世代の距離感に対応して見えただろう。そこでは、姉の反抗が無効化することへの冷めた視線がインパクトを与えたのかもしれない。しかし、アメリカによる一極支配=グローバリゼーションが進行する現在では、舞台の中央に祭壇のごとく君臨するコカコーラの自動販売機は隠喩ではなく現実そのものに思えるし、これに命がけで反逆する姉の姿は、余りに非現実的でありそれだけに英雄的なものと見え、そのぶん妹の姿は、なんとも痛々しく見えるのである。

最後に、菅孝行『死せる「芸術」=新劇に寄す』における「イスメネ」評を紹介し(23歳の劇作家佐藤信によって、安保後の現実の総体が哄われていると感じた、という切実な批評。それにしても、これが信さんの23歳の作品とは!)、さらにおまけで、日本のギリシア悲劇上演の好例として、鈴木忠志演出「トロイアの女」と蜷川幸雄演出「王女メディア」をビデオで紹介した。

●第5日 叙事的演劇を体験する ~ベルトルト・ブレヒト「例外と原則」~

前半は、ブレヒトの生涯とその時代背景を駆け足で紹介。とりわけ、第1次大戦後のドイツに対する敗戦処理とその社会的影響、ヒトラーによる政権獲得とこれに伴うワイルやブレヒトの亡命生活、第2次大戦後におけるブレヒトの東ドイツへの帰還について詳しく解説。また、「叙事的演劇」や「異化効果」といった主要な概念装置について説明し、代表作「三文オペラ」の内容を紹介。そして、メナヘム・ゴーラン監督「三文オペラ」の終幕部分をビデオで紹介。この映画は、全体的には冗長な作品だが、女王陛下によってメッキー・メッサーが恩赦を受けるというどんでん返しをなかなか面白く表現している。

後半は、ブレヒトの教育劇についてざっと解説した上で、その教育劇の一つ「例外と原則」を皆で音読。疑心暗鬼にとらわれ雇った苦力を殺してしまう主役の商人を、やはり夏の「ゴドー」に参加したIさんが好演。資本主義における人間の敵対的性格を一身に担った人物像を、滑稽さと残酷さの入り混じった迫力ある演技によって巧みに立体化してくれた。Iさんはこのゼミの皆勤賞で、5日にわたるゼミの集大成となる見事な演技だったと思う。最後に皆で感想を交換したが、「現代社会をリアルに描こうとすれば、こういう風にするしかないというのは、なんとなくわかる気がする」という感想があって、こちらとしてもやった甲斐があった。

というわけで、5日間10コマのゼミが終了した。安部公房、唐十郎、サミュエル・ベケット、佐藤信、ベルトルト・ブレヒトとかなりアヴァンギャルドなラインナップになったが、高校や大学で扱ったときより、またプロの俳優さんたちにやってもらったときより、はるかにヴィヴィッドな反応が返ってきて、こちらとしても面白かった。マスメディアを通した文化支配に対して、無意識的にであれ疑いを持っている若者でなければ、やはりこういう戯曲の本質をつかまえるのは難しいということだろう。その意味で、この大検予備校は私にとって大変居心地のよい現場であることを再確認した。