「第三帝国の恐怖と悲惨」を観る。


ハイナー・ミュラーを観たからブレヒトと観比べなければ、ということで、レパートリーシアターKAZE「第三帝国の恐怖と悲惨」を観に、東中野・レパートリーシアターKAZEへ。演出は岩淵達治先生。

昨日の「戦い」と共通するところの多い、モンタージュ的に展開する多場面芝居である。ミュラーの「戦い」が描いていたのはナチス・ドイツの崩壊過程であるが、ブレヒトの「第三帝国」は、ナチスの支配が社会の隅々にまで及び、相互監視や裏切りや密告によって人々が疑心暗鬼に苛まれ、抵抗運動は弾圧されユダヤ人は迫害される、ファシズムの脅威を描いている。暗雲に覆われた時代の様々な断面を短い場面によってスケッチし、場面の性格によってシリアスな作風とコミカルな作風を使い分け、ナチスの支配体制を軽やかに戯画化し、同時に、深く沈殿した怒りによって告発している。

岩淵演出は、スライドの投影や詩の朗読を巧みに織り交ぜ、各場面の背景を解説し、観客の作品に対する理解を深めることを狙っていた。むろん、これはどう見てもストレートな「啓蒙」であって、ブレヒト的な「異化」とは似て非なるものだ。ただ、こうして戯曲に付け加えられた要素は、ブレヒト紹介の第一人者によるものだけあって、さすがにわかりやすく、淀みなく頭に入ってくる。この、まるで本の脚注のような「啓蒙」のおかげで戯曲の内容が飲み込みやすくなったのは事実だし、また、「なぜ日本人がドイツの芝居をやらねばならないのか?」というような、海外の戯曲を日本人が上演する際に常々感ずる違和をこの芝居ではほとんど感じることはなかったのも、やはりこの「啓蒙」の効果によるところが大きいような気がした。

芝居の中身もまた、奇をてらうことなく淡々と進行する。過度に感傷的にならず、むしろ飄々としたタッチを活かしている点、岩淵演出の面目躍如であろう。ところで私は、岩淵先生が俳優をやっているところを二度見たことがある。老獪なガリレオ・ガリレイとすっとぼけたカール・マルクスで、どちらもとても面白かった。狡猾でありながら飄々としたあの感じは岩淵先生にしか出せないもので、この味わいは演出にも反映していると感じた。実は私は、俳優をやらせたときに面白い演出家でなければ演出家として認められないと思っているので(上手い俳優である必要はないが、面白い俳優ではあるべきだろう。俳優を経験せずに演出家になる人もいるが、私には理解を絶するスタンスである。そういう人は、舞台美術家や劇作家の仕事と、演出家の仕事を取り違えているのではないか?)、その意味で岩淵先生は信頼のおける演劇人だと感じているのだ。

閑話休題。レパートリーシアターKAZEの公演を観るのはこれが初めてだが、ベテランの俳優さんたちの技量の高さにはちょっと驚かされた。これもまた奇をてらうことのないリアリズムの演技ではあるのだが、次々に異なった役に変身するという難題を、実にスマートにこなしていて見事なものだった。特に「ユダヤ人種の妻」というエピソードで、辻由美子さん演ずるユダヤ人の妻が、人種政策によって追い詰められドイツ人医師である夫のもとを自ら立ち去ることを決め、衣類をたたんでスーツケースにしまいつつモノローグをつぶやくくだりは、完璧といっていい演技で、思わず息を飲んだ。私自身稽古場で、米内山明宏先生に習ったベラ・レーヌ・システムを応用して、せりふや小道具に依存せず「心の中のせりふ」をちょっとした動きによって表現する練習をよくやるのだが、これほど見事な表現にはお目にかかったことがない。

全体に、ブレヒト芝居の遊び心をもっと盛り込んでもいいのではないかという印象も残ったが、戯曲の内容に対する正確な理解に基づいた芝居づくりは、確かに観ていて心地の良いものであった。

ところで、「ファシズムに終わりは見えないが希望はある」とするブレヒトにしても、「ファシズムはいつか終わりを迎えるがしかし希望はない」とするミュラーにしても、これらの戯曲には、積極的にナチズムを支持する民衆の姿が登場しない(悪役として誇張された親衛隊員が出てくるばかりである)。「ヒトラーは合法的・民主的に政権を奪取した」とよく言われるが、草の根レベルでヒトラーに心酔した民衆の顔が見えないのである。ブレヒトが描いているのははっきり言ってブルジョワや知識人ばかりだし、ミュラーが描いているのは、残酷なメルヘンに出てくるような、寓意化されたキャラクターばかりである。ブレヒトもミュラーも複合的な視点で対象を観察する冷静な知性の持ち主ではあるのだが、このあたり今ひとつである。裏返せば、演出という仕事によって付け加えるべき要素をここから炙り出すことができるかもしれない。