「戦い-ドイツの光景」を観る。


桐朋短大・専攻科演劇専攻1年試演会「戦い -ドイツの光景(1951/74)」を観に、大学の小劇場へ。ハイナー・ミュラーの脚本を、ペーター・ゲスナーが演出し、桐朋の学生たちが出演した芝居である。

劇場に足を踏み入れると、ハーケンクロイツの形をした舞台が、デカデカと開帳場となって設えられている。ずいぶんとベタな美術だな、と感じはしたものの、この複雑な形状の舞台を縦横無尽に活用する演出は、さすがに技量を感じさせるものであった。

内容は、ナチス・ドイツの崩壊過程を主題とした様々な情景が、モンタージュ的に展開する多場面芝居である。ブレヒトの「第三帝国の恐怖と悲惨」の続編といった趣。脚本の通奏低音となっているのは、道徳も宗教もイデオロギーも決して腹を満たしてはくれない!とでも言いたげに、時に肉屋と化して屠殺を繰り返し、時に野犬と化して共食いを繰り返す、滑稽なドイツ民衆の姿である。ファシズムと戦争と貧困によって露呈する、カーニバル的唯物論とでも形容すべきか。

ブレヒトとの相違は必ずしも見えやすくはないが、気づいたことを述べておくと、ブレヒトの場合、絶望を描きつつもその根底では抵抗への希望をこめているわけだが、ミュラーにはそれがなく、はしたなくも「動物のように生きる」民衆の赤裸々な姿が、グロテスクに誇張されるばかりだ。このため、「ファシズムは害悪だが、しかし、コミュニズムがそれを防ぎうるわけではない」という冷めた視線が感じられるのも、ミュラー戯曲の特徴と言えようか。例えば冒頭は、コミュニストからファシストへと転向を果たした親衛隊員(かな?)が、自分を糾弾する弟に対して「俺を殺してくれ」と懇願する場面から始まる。「ハムレットマシーン」におけるハムレット=左派知識人の自己分裂を想起させる設定である。つまり、ここでは共産主義は、ファシズムの暴虐に対して全く無力であり、それどころか節を曲げ屈服すらする存在として描かれている。最後の場面は、ロシア兵が侵攻してくると信じて白旗を掲げ投降を試みた途端、ナチスの親衛隊員に捕縛され殺される男の話である。ここでも、ソ連軍は一歩遅れてやってくるばかりで、真の解放者の役割を演ずることはできない。殺された男の死体に果物を添えてロシア兵たちは静かに立ち去るが、殺された男を親衛隊員に売り飛ばした男女は、喪の儀式などかなぐり捨てて、その果物にむしゃぶりつくのである。我が国では、日本共産党までもが連合国軍を「解放軍」と規定し、民衆は米軍を歓迎し、マーシャル・プランにむしゃぶりついたわけだが、ドイツ民衆の連合国軍に対する心情にも、似たようなところがあったのだろうか。別に「共産主義は正しい」と信じたから共産圏に属したのではなく、こちらに銃を向けながら食い物を与えてくれる強者に屈服しただけだ、東ドイツ国民は--ミュラーはまるでそう言いたいようである。ところが、彼自身は飽くまでコミュニストなのだ。この自己矛盾、この屈折、このシニシズムが、ミュラーにあってブレヒトにないものと、言えば言えるのかもしれない。

舞台美術に象徴的な機能を担わせ、ヨハン・シュトラウスのピアノ独奏を挿入し、俳優諸君が次々と難役に挑戦する演出は、それなりに見応えがあって楽しめるものだった。ただ、これだけの複雑な歴史的背景を背負った戯曲を、まだ学生である若い俳優たちに担わせるというのは、うーん、一体どうなんだろ、という疑問がないではない。ミュラーに挑戦する以上は、ひとたびブレヒトを通過していなければならないはずだ。すなわち、劇作家でも演出家でもなく俳優自身が、歴史というドラマの客観的な語り手となることがまず必要で、そのうえで、その歴史というドラマは、いつも悲喜劇の繰り返しでしかないとする、絶望的なユーモアを表現せねばならないのだ。そのとき舞台は、ブレヒトに見られる形式的な実験性を攪乱し、出口なき「否定弁証法」を演じ、ついには、一切合財が灰燼に帰すカタストロフィックなイメージの氾濫に覆われてゆく。「役を演じる」ことで手一杯といううちは、ミュラーはおろか、ブレヒトすら演じたことにはならない。俳優諸君は全力でぶつかっていたし、その姿勢には好感を覚えたが、ゲスナー氏がふだん専攻科でおこなっている講義の成果が現れているという印象は、正直言って乏しかった。うんと簡単に言えば、どうも俳優諸君がこの戯曲を「つまりシリアスに演じればいいってことか」という具合に受け止めている感じがして、それはいささか安直ではないかと思ったのである。とりわけ、感情の高ぶりを怒鳴り声で表現したりするのは、桐朋生の毎度の悪い癖ではないか。

急いで付け加えておくが、別に私は俳優諸君に「だからもっと技術を磨け、修練を重ねろ」などと言いたいのではない。「学生だから」ミュラーはまだ早い、と言いたいわけでもない。ブレヒトやミュラーに挑戦するならば、むしろ逆に、「役を演ずる」ことの外に出てみてはどうか、と提案したいのである。そして演出家には、その“外”とはどこなのかを指し示す責任がある。ただ、桐朋に集まっているようなプロ志向を持った若い俳優には、なかなか「役を演ずる」ことを離れるなどという精神的余裕は生まれにくいだろう。技術の巧拙が問題なのではなく、この余裕のなさが、ブレヒトやミュラーを成立させにくくしているとは言えると思う。もちろん、桐朋に限らず、これは日本演劇界全体に言えることではあるのだが。いや、演劇界のみならずそもそも今の日本社会では、「マジ」だったり「ベタ」だったりするものを笑い飛ばすような、余裕ある知性が消え失せている。なにしろ「世界の中心で愛を叫ぶ」「ぷちナショ」な時代である。こうした風潮に対しては、ただひとり香山リカが執拗に違和感を表明し続けているが、今やバブル世代のユーモアこそ、少数派の特殊な感覚としてウザがられているのではないか。岡崎京子は未だ復帰せず、ナンシー関はこの世を去り、西原理恵子はフツーに義理人情を語るお母さんになりつつある。ガタリもドゥルーズもサイードもソンタグもデリダもみんな死んでしまった。窮屈な世の中になったものである。

話を戻すが、ここまで踏まえたうえで、桐朋に集まるような俳優の卵たちは、どこへ向かうべきなのか。ブレヒトやミュラーが代表する西洋現代演劇の水準など、日本の観客には関係のないものと割り切って、やり過ごしてしまうべきなのか。それとも、西洋現代演劇の水準を理解したうえで、日本社会に対して批判的な目を向けるべきなのか。これは私自身悩むところでもある。一緒に悩みませんか、専攻科の俳優諸君!

蛇足ながら補足。日本におけるミュラー演出は、自意識過剰な前衛ごっこに堕してしまった。ああいうくだらないお遊びと比べれば、この「戦い」は、ちゃんと芝居になっていた例外的な作品である。しかし、ゲスナー氏は東独出身の演出家なのだから、そりゃそのくらいできるだろう、そんなところを褒めるのは却って失礼だろう、ということで、敢えて厳しい感想も書いておきました。