夏休みに入ったら時間ができるかと思いきや、月収が落ちるのが恐いという貧乏性のせいで、イレギュラーの細かい仕事を拾っているうちに却って忙しくなってしまった。細かい仕事もこまめにこなすことができれば一人前なんだろうが、ところが私は、フリー志向が強いくせに自宅ではまともに仕事が処理できないという致命的な欠点を抱えている(誰かと同居していようが、ひとりで暮らしていようが、この欠点だけはどうしても改まらない)。本当は物書きなど務まるはずがないし、まあ現に粗雑な物しか書いてはいない。そこで、会社勤めはできないと思う一方、「オフィスに通う」というライフ・スタイルには憧れを覚えたりするのだから、我ながらどうしようもない。個人事務所でも構えればいいのか。しかし、個人事務所を構えねばならないくらい多忙な生活って……それも無理だ。要するにフリーは向いていないのかしらん。

ところでこの3日間は、今月のメインの仕事として、大検予備校で「声に出して戯曲を読む」ゼミを開設した。各日とも(1)簡単なシアターゲーム、(2)戯曲のリーディング、(3)関連する作品の紹介、という構成で、これを1時間半×2コマ=計3時間に収める。3日間で計6コマ=9時間だから、それなりにボリュームがある。内容は以下の通りである。

第1日 戦後新劇を体験する ~安部公房「制服」~

     関連作品:勅使河原宏監督「砂の女」「他人の顔」を紹介

第2日 アングラ演劇を体験する ~唐十郎「ガラスの少尉」~

     関連作品:寺山修司、唐十郎、鈴木忠志の舞台を映像で紹介

第3日 不条理演劇を体験する ~サミュエル・ベケット「ゴドーを待ちながら」~

     関連作品:ベケットが監督した映像作品を紹介

ただでさえ大向こう受けしない内容であり、さらに、他の授業との兼ね合いで午前から午後にかけて実施したせいか、受講者は極端に少なかった。残念である。ただ、参加してくれた生徒たちはなかなか魅力のある面々で、とりわけ、3日通して参加したIさんとHさんは、驚くほど味わいのある演技を披露してくれた。ふたりとも、別に役者志望でも何でもなく、決して巧く見せようなどという執着はもっておらず、まずは自分が役柄を理解したいという動機に従って台詞を音読し、あれこれ模索し工夫してみせるから、嫌味がなく、説得力がある。これと比べれば日本のプロの俳優(および俳優志望者)というのは、確かに技術と迫力はあるが、肝心な理解力と説得力を欠いていると言わざるをえない。それがはっきり出てしまうのは、初見で台本を読むときである。彼らは漢字が読めないし、やたらにつっかかるし、背景を察知する教養もないし、そのくせ巧く見せたい・ウケは狙いたいという色気だけはあったりするから、結果、混乱に混乱を重ねて聞くに耐えないリーディングとなることがほとんどである。以前、ペーター・ゲスナー氏が演出したハイナー・ミュラー作品のリーディングを観終わった後で、アクティヴィストのTさん(本郷文化フォーラムで演劇関係の企画を立てたりしておられる)とお話ししたのだが、「初見で台本を読ませると、プロの俳優さんは面白くないね。いつも素人が読む方が遥かに面白いと感じるんだけど、なんでだろうね」と仰っていて、我が意を得たりと頷いた次第である。

今回の講座の場合、感動的だったのは3日目の「ゴドーを待ちながら」である。これまで、様々な俳優、様々な演出による「ゴドー」を観てきたが、今回IさんHさんが演じた「ゴドー」は、滑稽にして酷薄な人生の諸相を鮮やかに浮かび上がらせ、はっきり言って最高の「ゴドー」であった。感激したものの、たちまち「なぜプロの俳優にはこれができないのか?」と頭を抱えてしまう。演劇業界はダメ人間の巣窟であるからして、IさんやHさんのような有為の人材は入ってこないということなのだろうか。実際、ふたりには間違ってもこの業界にだけは入ってほしくないわけだが(笑)。

そんなことを考えつつ、夜、Hさんを連れて森下のベニサン・ピットで「非戦の会」の稽古を見学する。総合演出は文学座の西川信廣さん。日本の教育現場における「日の丸・君が代」強制問題を報告するリーディングは、二兎社の永井愛さんの演出、場面変わってパレスチナ問題を報告するリーディングは、宇宙堂の渡辺えり子さんの演出である。前半は、市原悦子さんの堂々たる居住まいに圧倒された。後半は、なんと筒井康隆御大が出演していた。稽古を見せてもらっておいて批評的な感想を述べるわけにはいかないが、ただ、私がずしりと腹に響く説得力を最も強く感じたのは、筒井康隆御大の朗読であったということだけは記しておきたい。私が芝居を始めるきっかけとなったのは、筒井先生の戯曲「ジーザス・クライスト・トリックスター」なんです、サインして下さい!と話しかけたい誘惑に駆られるも、ぐっとこらえて、稽古場の撤収をお手伝いした。