「生田川物語」を観る。


「生田川物語」を観に、神奈川県立音楽堂へ。神奈川芸術文化財団の演劇部門で何度か一緒にお仕事をさせてもらったNさんが、音楽堂に移ってから数年越しで実現させた企画とあって、楽しみにしていた公演である。

演出・主演は観世栄夫、出演は野村万作・三宅右近・茂山逸平、声明&語りは桜井真樹子、作曲・ピアノ演奏は一柳慧、打楽器演奏は神田佳子、そしてテキストは大岡信が執筆し、舞台美術として故・井上有一の書が登場するという、要するに、当代一流の芸術家が一堂に会した超豪華コラボレーションである。

期待に違わず極めて完成度の高いパフォーマンスで、美酒に酔い痴れるようなひとときを味わった。今年のベストワンはこの舞台かもしれない。しとやかな美女が死して怨霊へと変化し、そしてその怨霊の心根には、どこか優しさが秘められている--そんな難しい役どころを、観世さんが流麗に演じ切った。能面をつけて登場する狂言師3人は、狂言師らしいアクションを交えて、激しいドラマを繰り広げた。水底で展開する愛憎劇は、オルフェウスの神話を連想させる。観世さんの謡が、一柳さんの作曲と調和して聞こえる様も、実に美しい。以前私も現代音楽の演奏に俳優の演技を重ねるオペラを演出したことがあるが、無調の音楽に俳優のモーションを同調させるのは至難の技であった。しかし、今日の舞台では能楽師も狂言師も同じようなことを難なくこなし、のみならず、非常に音楽性の高い舞台を作り上げている。見ている途中でハタと気がついたが、能も狂言も本質的には音楽劇であって、パフォーマーたちの耳には、こうして演じている最中にも、はっきりと囃子の音が聴こえているのだ! 演出家とか演劇批評家とか名乗りながら、こんなことにも今さら気がつくのだから、恥ずかしい話である。それにしても、嗚呼、一流の芸とはこうまで完成されたものなのか……。最初から最後まで圧倒されっぱなしで、省みて、己の小ささを思い知らされた。

重箱の隅をつつくようだが、一点、気になったことがある。大岡信さんのテキストは、基本的にデスマス体の口語調で書かれている。口語でなければ今日の観客である我々は聞き取れないのは事実なのだが、しかし、やはり文語調の台詞でなければ、音楽的にはどうもしっくりこない。もちろん、これはこの舞台に限った話ではなく、日本語で演じられる舞台芸術の全般(合唱、オペラ、ミュージカル、現代演劇など)に当てはまることではある。このような上演言語の問題は、日本近代芸術が背負った巨大なアポリアであるが、今日は優れた作品であるからこそその点が際立って見えたような気がした。そして、このアポリアを理論的かつ歴史的に解きほぐすことを、これから私は私の仕事としていきたい。

ロビーで、文芸評論家の武井昭夫さん(映画・演劇評論家でもある)にお会いした。武井さんはどんな感想をお持ちになっただろうか。また今度聞いてみよう。